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黄昏の地中海
たそがれのちちゅうかい
作品ID50281
著者永井 荷風
文字遣い新字旧仮名
底本 「日本の名随筆56 海」 作品社
1987(昭和62)年6月25日
入力者門田裕志
校正者noriko saito
公開 / 更新2010-02-01 / 2014-09-21
長さの目安約 10 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 ガスコンの海湾を越え葡萄牙の海岸に沿うて東南へと、やがて西班牙の岸について南にマロツクの陸地と真白なタンヂヱーの人家を望み、北には三角形なすジブラルタルの岩山を見ながら地中海に進み入る時、自分はどうかして自分の乗つて居る此の船が、何かの災難で、破れるか沈むかしてくれゝばよいと祈つた。
 さすれば自分は救助船に載せられて、北へも南へも僅か三哩ほどしかない、手に取るやうに見える向の岸に上る事が出来やう。心にもなく日本に帰る道すがら自分は今一度ヨーロツパの土を踏む事が出来やう。ヨーロツパも文明の中心からは遠つて男ははでな着物きて、夜の窓下にセレナドを弾き、女は薔薇の花を黒髪にさしあらはなる半身をマンチラに蔽ひ、夜を明して舞ひ戯るゝ遊楽の西班牙を見る事が出来るであらう。
 今、舷から手にとるやうに望まれる向の山――日に照らされて土は乾き、樹木は少く、黄ばんだ草のみに蔽はれた山間に白い壁塗りの人家がチラ/\見える、――あの山一ツ越えれば其処は乃ちミユツセが歌つたアンダルジヤぢやないか。ビゼーが不朽の音楽を作つた「カルメン」の故郷ぢやないか。
 目もくらむ衣裳の色彩と熱情湧きほとばしる音楽を愛し、風の吹くまゝ気の行くまゝの恋を思ふ人は、誰れか心をドンジヤンが祖国イスパニヤに馳せぬものがあらう。
 熱い日の照るこの国には、恋とは男と女の入り乱れて戯れる事のみを意味して、北の人の云ふやうに、道徳だの、結婚だの、家庭だのと、そんな興のさめる事とは何の関係もないのだ。祭礼の夜に契を結んだ女の色香に飽きたならば、直ちに午過の市場に行きて他の女の手を取り給へ。若し、其の女が人の妻ならば夜の窓にひそんで一挺のマンドリンを弾じつゝ、Deh, vieni alla finestra, O mio tesoro!(あはれ。窓にぞ来よ、わが君よ。モザルトのオペラドンジヤンの歌)と誘ひ給へ。して、事露れなば一振の刃に血を見るばかり。情の火花のぱつと燃えては消え失せる一刹那の夢こそ乃ち熱き此の国の人生の凡てゞあらう。鈴のついた小鼓に、打つ手拍子踏む足拍子の音烈しく、アンダルジヤの少女が両手の指にカスタニエツト打鳴らし、五色の染色きらめく裾を蹴立てゝ乱れ舞ふ此の国特種の音楽のすさまじさ。嵐の如くいよ/\酣にしていよ/\急激に、聞く人見る人、目も眩み心も覆る楽と舞、忽然として止む時はさながら美しき宝石の、砕け、飛び、散つたのを見る時の心地に等しく、初めてあつと疲れの吐息を漏すばかり。この国の人生はこの音楽の其の通りであらう……
 然るを船は悠然として、吾が実現すべからざる欲望には何の関係もなく、左右の舷に海峡の水を蹴つて、遠く沖合に進み出た。突出たジブラルタルの巌壁は、其の背面に落ちる折からの夕日の光で、燃える焔の中に屹立してゐる。其の正面、一帯の水を隔てたタンヂヱーの人家と低く延長したマロツクの…

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