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花より雨に
はなよりあめに
作品ID50282
著者永井 荷風
文字遣い新字旧仮名
底本 「日本の名随筆43 雨」 作品社
1986(昭和61)年5月25日
入力者門田裕志
校正者noriko saito
公開 / 更新2010-01-12 / 2019-01-09
長さの目安約 8 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 しづかな山の手の古庭に、春の花は支那の詩人が春風二十四番と数へたやう、梅、連翹、桃、木蘭、藤、山吹、牡丹、芍薬と順々に咲いては散つて行つた。
 明い日の光の中に燃えては消えて行くさま/″\な色彩の変転は、黙つて淋しく打眺める自分の胸に悲しい恋物語の極めて美しい一章々々を読み行くやうな軟かい悲哀を伝へる。
 われの悲しむは過ぎ行く今年の春の為めではない、又来べき翌年の春の為めと歌つたのは誰れであつたか忘れてしまつたが、春はわが身に取つて異る秋に等しいと云つたのは、南国の人の常として殊更に秋を好むジヤン・モレアスである。
 空は日毎に青く澄んで、よく花見帰りの午後から突然暴風になるやうな気候の激変は全くなくなつた。日の光は次第に強くなつて赤味の多い柚色の夕日はもう黄昏も過ぎ去る頃かと思ふ時分まで、案外長く何時までも高い樫の梢の半面や、又は低く突出た楓の枝先などに残つて居る。或は何処から差込んで来るものとも知れず、植込の奥深い土の上にばら/\な斑点を描いて居る事もあつた。かゝる夕方に空を仰ぐと冬には決して見られない薄鼠色の鱗雲が名残の夕日に染められたまゝ動かず空一面に浮いてゐて、草の葉をも戦がせない程な軽い風が食後に散歩する人をばいつか星の冴えそめる頃まで遠く郊外の方へと連れて行く。
 何処を見ても若葉の緑は洪水のやうに漲り溢れて日の光に照される緑の色の強さは閉めた座敷の障子にまで反映するほどである。されば午後の縁先なぞに向ひ合つて話をする若い女の白い顔が電灯の光に舞ふ舞姫のやうに染め出される事がある。どんより曇つた日には緑の色は却て鮮かに澄渡つて、沈思につかれた人の神経には、軟い木の葉の緑の色からは一種云ひがたい優しい音響が発するやうな心持をさせる事さへあつた。

 わが家の古庭は非常に暗く狭くなつた。
 繁つた木立は其枝を蔽ふ木の葉の重さに堪へぬやうな苦し気な悩しげな様子を見せるばかりか、圧迫の苦悩は目に見えぬ空気の中に漲りはじめる。西からとも東からとも殆ど方向の定まらぬ風が突然吹き下りて突然消えると、こんもりした暗い樹木は蛇の鱗を動すやうな気味悪い波動をば俯向いた木の葉の茂りから茂りへと伝へる。折々雨が降つて来ても、庭の地面は冬のやうに直様濡れはせぬ。濡れると却て土地の熱気を吐き出すやうに一体の気候を厭に蒸暑くさせる。伸び切つた若葉の尖つた葉末から滴りもせずに留つて居る雨の雫が、曇りながらも何処か知らパツと明い空の光で宝石のやうに麗しく輝く。石に蒸す青苔にも樹の根元の雑草にも小さな花が咲いて、植込の蔭には雨を避ける蚊の群が雨の糸と同じやうに細かく動く。

 雲が流れて強い日光が照り初めると直ぐに苺が熟した。枇杷の実が次第に色付いて、無花果の葉裏にはもう鳩の卵ほどの実がなつて居た。日当の悪い木立の奥に青白い紫陽花が気味わるく咲きかけるばかりで、最早や庭中何処…

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