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水 附渡船
みず ふわたしぶね
作品ID50285
著者永井 荷風
文字遣い新字旧仮名
底本 「日本の名随筆33 水」 作品社
1985(昭和60)年7月25日
入力者門田裕志
校正者noriko saito
公開 / 更新2010-01-15 / 2014-09-21
長さの目安約 17 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 仏蘭西人ヱミル・マンユの著書都市美論の興味ある事は既にわが随筆「大窪だより」の中に述べて置いた。ヱミル・マンユは都市に対する水の美を論ずる一章に於て、広く世界各国の都市と其の河流及び江湾の審美的関係より、更に進んで運河沼沢噴水橋梁等の細節に渉つて此を説き、猶其の足らざる処を補はんが為めに水流に映ずる市街燈火の美を論じてゐる。
 今試に東京の市街と水との審美的関係を考ふるに、水は江戸時代より継続して今日に於ても東京の美観を保つ最も貴重なる要素となつてゐる。陸路運輸の便を欠いてゐた江戸時代にあつては、天然の河流たる隅田川と此れに通ずる幾筋の運河とは、云ふまでもなく江戸商業の生命であつたが、其れと共に都会の住民に対しては春秋四季の娯楽を与へ、時に不朽の価値ある詩歌絵画をつくらしめた。然るに東京の今日市内の水流は単に運輸の為めのみとなり、全く伝来の審美的価値を失ふに至つた。隅田川は云ふに及ばず神田のお茶の水本所の竪川を始め市中の水流は、最早や現代の吾々には昔の人が船宿の桟橋から猪牙船に乗つて山谷に通ひ柳島に遊び深川に戯れたやうな風流を許さず、また釣や網の娯楽をも与へなくなつた。今日の隅田川は巴里に於けるセーヌ河の如き美麗なる感情を催さしめず、また紐育のホドソン、倫敦のテヱムスに対するが如く偉大なる富国の壮観をも想像させない。東京市の河流は其の江湾なる品川の入海と共に、さして美しくもなく大きくもなく又さほどに繁華でもなく、誠に何方つかずの極めてつまらない景色をなすに過ぎない。しかし其れにも係らず東京市中の散歩に於て、今日猶比較的興味あるものは矢張水流れ船動き橋かゝる処の景色である。
 東京の水を論ずるに当つてまづ此を区別して見るに、第一は品川の海湾、第二は隅田川中川六郷川の如き天然の河流、第三は小石川の江戸川、神田の神田川、王子の音無川の如き細流、第四は本所深川日本橋京橋下谷浅草等市中繁華の町に通ずる純然たる運河、第五は芝の桜川、根津の藍染川、麻布の古川、下谷の忍川の如き其の名のみ美しき溝渠、もしくは下水、第六は江戸城を取巻く幾重の濠、第七は不忍池、角筈十二社の如き池である。井戸は江戸時代にあつては三宅坂側の桜ヶ井も清水谷の柳の井、湯島の天神の御福の井の如き、古来江戸名所の中に数へられたものが多かつたが、東京になつてから全く世人に忘れられ所在の地さへ大抵は不明となつた。
 東京市は此の如く海と河と堀と溝と、仔細に観察し来れば其等幾種類の水――既ち流れ動く水と淀んで動かぬ死したる水とを有する頗変化に富んだ都会である。まづ品川の入海を眺めんにここは目下猶築港の大工事中であれば、将来如何なる光景を呈し来るや今より予想する事はできない。今日まで吾々が年久しく見馴れて来た品川の海は僅に房州通の蒸汽船と円ツこい達磨船を曳動す曳船の往来する外、東京なる大都会の繁栄とは直接にさした…

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