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作品ID | 50290 |
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著者 | 永井 荷風 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「日本の名随筆72 夜」 作品社 1988(昭和63)年10月25日 |
入力者 | 門田裕志 |
校正者 | noriko saito |
公開 / 更新 | 2010-02-01 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 8 ページ(500字/頁で計算) |
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余は都会の夜を愛し候。燦爛たる燈火の巷を愛し候。
余が箱根の月大磯の波よりも、銀座の夕暮吉原の夜半を愛して避暑の時節にも独り東京の家に止り居たる事は君の能く知らるゝ処に候。
されば一度ニユーヨークに着して以来到る処燈火ならざるはなき此の新大陸の大都の夜が、如何に余を喜ばし候ふかは今更申上るまでもなき事と存じ候。あゝ紐育は実に驚くべき不夜城に御座侯。日本にては到底想像すべからざる程明く眩き電燈の魔界に御座候。
余は日沈みて夜来ると云へば殆ど無意識に家を出で候。街と云はず辻と云はず、劇場、料理店、停車場、ホテル、舞踏場、如何なる所にてもよし、かの燦爛たる燈火の光明世界を見ざる時は寂寥に堪へず、悲哀に堪へず、恰も生存より隔離されたるが如き絶望を感じ申候。燈火の色彩は遂に余が生活上の必要物と相成り申候。
余は本能性に加へて又知識的にこの燈火の色彩を愛し候。血の如くに赤く黄金の如くに清く、時には水晶の如くに蒼きその色その光沢の如何に美妙なる感興を誘ひ侯ふか。碧深き美人の眼の潤ひも、滴るが如き宝石の光沢も、到底これには及び申さず候。
余が夢多き青春の眼には、燈火は地上に於ける人間が一切の欲望、幸福、快楽の象徴なるが如く映じ申候。同時にこれ人間が神の意志に戻り、自然の法則に反抗する力ある事を示すものと思はれ候。人間を夜の暗さより救ひ、死の眠りより覚すものはこの燈火に候。燈火は人の造りたる太陽ならずや、神を嘲りて知識に誇る罪の花に侯はずや。
さればこの光を得、この光に照されたる世界は魔の世界に候。醜行の婦女もこの光によりて貞操の妻、徳行の処女よりも美しく見え、盗賊の面も救世主の如く悲壮に、放蕩児の姿も王侯の如くに気高く相成り候。神の栄え霊魂の不滅を歌ひ得ざる堕落の詩人は、この光によりて初めて罪と暗黒の美を見出し候。ボードレールが一句、
Voice le soir chermant, ami du criminel;
Il vient comme un complice,[#挿絵]pas de loup; le ciel
Se ferme lentement comme une grande alc[#挿絵]ve,
Et l'homme impatient se change en b[#挿絵]te fauve.
「悪徒の友なる懐しき夜は狼の歩み静かに共犯人の如く進み来りぬ。いと広き寝屋の如くに、空徐に閉さるれば心焦立つ人は忽野獣の如くにぞなる……」と。余は昨夜も例の如く街に灯の見ゆるや否や、直に家を出で、人多く集り音楽湧出るあたりに晩餐を食して後、とある劇場に入り候。劇を見る為めには非ず、金色に彩りたる高き円天井、広き舞台、四方の桟敷に輝き渡る燈火の光に酔はんが為めなれば、余は舞姫多く出でゝ喧しく流行歌など歌ふ趣味低きミユーヂカル、コメデーを選び申候。
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