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作品ID50295
著者戸田 豊子
文字遣い新字新仮名
底本 「日本プロレタリア文学集・23 婦人作家集(三)」 新日本出版社
1987(昭和62)年11月30日
初出「女人芸術」1929(昭和4)年6月号
入力者林幸雄
校正者hitsuji
公開 / 更新2021-04-11 / 2021-03-27
長さの目安約 20 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 街で兄に遇った。走ってる電車のなかで新聞を読んでいた。ハンドルを持つ手が、赤く大きく、じろりと、とも子を見た。
「仕事をみつけたのかい」
 いかにも疲れたらしい妹の恰好に眼をつけ乍ら、そう言った。とも子は黙って肯いた。スカートがべとべとからみつく様な疾風に逆いながら、一日ぐるぐる歩きまわった。訪問、契約、拒絶、報告、――。
「今度は何だい。また馘られんようにした方がいいぜ」
「今度のは大丈夫。何故? 余り金借りにゆかれると困るから?」
 新聞を畳んでポケットへしまいながら、兄はにやりとした。組んでいたズボンの片方を降して、一寸、窓を振り返った。
 とも子は挟みこまれたスカートを引っぱり、兄のカフスの汚れに目を止めた。土曜の此時刻には割に空いてる線だった。
「近頃、新聞を読んでるのかい」
「どんな新聞」
「ブルジョア新聞さ、俺の自動車の前でお婆さんがお叩頭しちゃったんだ、金持のご隠居だ相だが嫌になっちゃったよ。今度の争議の計画で会社側に睨まれてる最中だろう、いい解雇の口実を与えて了ったのさ、不利も不利――」
「お婆さんを――」とも子は複雑な唸り方をして、「そりゃ可哀相ね、まさか死にやしないでしょうね」
 兄は聞えない振りをした。
「罰金で済むんでしょうね」
「さあ、まだ引掛かってるんだ――」
 電車の中ではそれ以上のことは聞けなかった。兄は小指の先で耳が赤くなる程引かきまわした。カーブの所でぐっと声を高めた。――
「おっ母さんから便りがある?」
「あ、時々」
「近頃、金を送ってやれないでるんだ、そんな事情で。お前の方で何とかしてやっててくれないかな、その代りお前が首になった時には俺がやるよ」
 とも子は笑い乍ら頷いた。それからは、時々肩をぶっつけ合って、黙って揺られた。二人の前へトランクを提げた男が立塞がった。
「今日は急ぐの? 久し振りにご飯でも食べようか――、そうか、じゃまたこの次にしよう、渡君に会ったら宜しくね」
 そう言って、兄は交叉点へ降りて行った。
 ――母は癖で、布団をたたんだような恰好に平たく坐り、しょんぼり心の弱った眼を[#挿絵]っているかも知れない、疲れているんだ。
 ――彼女の蒼ざめた顔が迫ってくる、皺ばんだ枯れた腕をさし伸ばしている、それから、おずおず多勢の押しひしがれてる母たちの中へ呑みこまれてゆく、芥子粒のように小さくなる――。
「だからこそ――」
「兄の闘志を、こんな牧歌的な憂いで曇らせては不可ない――」
 そう、そう、最近郷里の友から報告されている、「県で始めての立禁争議――暴動化」について、一寸、知らせてやりたかったのに、と思った。
 しかし、何と言っても、とも子の心は渡の方へ惹かれて行った。子供のように靴の踵で電車の床を叩きながら、頭だけは一足先に渡のいるアパートへ吸われている。……狭い階段をぐるぐる馳け上る、一階の突当り…

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