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父の帰宅
ちちのきたく |
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作品ID | 50322 |
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著者 | 小寺 菊子 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「ふるさと文学館 第二〇巻 【富山】」 ぎょうせい 1994(平成6)年8月15日 |
初出 | 「文章世界」1910(明治43)年4月号 |
入力者 | 林幸雄 |
校正者 | 富田倫生 |
公開 / 更新 | 2011-05-05 / 2014-09-16 |
長さの目安 | 約 22 ページ(500字/頁で計算) |
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一
「あれ誰だか、兄さんは知つとるの!」
「知らん!」
「ちよつとそこ覗いて来ると分るわ。」
小学校から帰つて来た兄と妹である。部屋一つ隔てた奥の座敷を、兄の孝一は気味わるさうにそつと覗きに行つた。
「分つた?」
賢こい眼を輝かせて、みよ子は微笑した。
「うゝん。」
孝一は頭を振つた。
「をかしな兄さん、恍けとるのね、」
「………………」
可愛い下り眼の兄の表情がくもつて、返事をしない。
「あんまりびつくりして、眼が廻つたの! 顔色がわるいわ。」
妹の自分にさへ分つてをるのに、兄に分らぬ筈があらうか……とみよ子はなほも微笑をつゞけてゐる。この四五日のざわ/\とした家の様子で、兄妹とも窃に「父の帰宅」を感づいてゐたのだが、然し、誰も子供たちにそれを話してくれなかつたのである。
「あれ、私たちのお父さんぢやないの、変な兄さんね、もう一遍見てくるといゝわ。」
臆病さうな兄を見上げて、みよ子は自分の嬉しさを一杯に現はしてゐる。
「あれがお父さん? そうかなあ。」
孝一はだん/\と青ざめて来た。
「さうよ、兄さんちつとも覚えてゐないの? 私は少しおぼえてるわ。だけれど、あんまりおぢいさんになつてちよつと分らないわね、頭がずゐぶん白いんだもの…………」
「ふゝむ、おら、見たくないなあ、いやだなあ。」
孝一の唇がピリ/\つと痙攣した。
「でも、お父さんに違ひないんだもの、さつきお母あさんがさう云つたのよ、早く見てくるといゝわ。そしたら少し思ひ出せるかも知れないわ。」
「いやだい、おら、いやだい、お父さんが家へ帰つて来たんなら、おら、いやだい、明日から学校へ行かれん、あゝ、いやだ/\。」
机の上にぴたつと額をつけた。
「どうして学校へ行かれんの? ねえ、兄さん!」
「おら恥かしうて迚も学校へ行かれん、お父さんなんか、家にゐてくれん方がずつといゝんだ、明日学校へ行つてみい、みんなに顔ながめられたり、くしや/\云はれたりするんだもの、あゝ、いやだ/\。」
兄はたまらないやうにいふのだつた。
「だつて、お父さんが家にをらんのより、をつた方がいゝんぢやないの? もう家へ帰つて来てくれたんだからいゝぢやないの?」
「おら、いやだ、明日学校へ行かうもんなら、今まで忘れてゐたことを思ひ出して、みんなに私語かれるんだ、それがたまるけえ、おら、もう学校へ行かん、行かん!」
頭をかゝへて、孝一は悲しげに呟くのだつた。
「私だつて、兄さんと同じにしよつちゆ友達からバカにされて泣いて来たわ、だけれど、そのお父さんがもう家へ帰つて来てくれたんだから、いゝと思ふわ。」
「さうかい、みよ子はまだ子供だからね、分らないんだよ、おら、いやだなあ、あゝ、どうしようかな。」
ぞく/\と悪寒をかんじてゐるらしい兄を見ると、みよ子も一しよに悲しくなつた。
「英ちやんこそ、まだ子供だから、な…