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念仏の家
ねんぶつのいえ
作品ID50323
著者小寺 菊子
文字遣い新字旧仮名
底本 「ふるさと文学館 第二〇巻 【富山】」 ぎょうせい
1994(平成6)年8月15日
入力者林幸雄
校正者富田倫生
公開 / 更新2011-05-10 / 2014-09-16
長さの目安約 17 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 私の家の祖先は、越中の国水橋といふ小さな漁村の生れであつた。
「有磯の海」といふのである。枕の草紙に、「渡りはしかすがの渡、こりずまの渡、みづはしの渡」とある。その水橋である。文治二年正月末、源義経主従十七人が山伏の姿となつて奥州へ落去の途次、京都堀川を忍び出て、越前に入り、安宅の関をすぎ、倶利伽羅峠をこえて、越中に入り、水橋川を渡つた――といふ史話がある。鎌倉時代、富山城より二十四年おくれて、小さな城が築かれ、天正六年に姉崎和泉守が、水橋城で討死してから廃城した――と伝へられてゐる。
 明治十一年――明治天皇が北国御巡幸の際、九月三十日午前十一時五十分、鹵簿粛々として東水橋町に御着輦になり、慮瀬といふ旧家に御座所を設けたが、その時の行列は八百三十五人、乗馬は百十五頭で、天地開闢以来曾てない壮観を極めた――と郷土小史に書きのこしてある。その水橋である。短歌俳句の愛好家が多く、芭蕉の像を祀つて運座の会が開かれたりすることは、富山市と変りがなく、私の父もその水橋の旧家に生れた一粒種の青年であつた。土地柄売薬を業としてゐたが、明治十一年ごろ富山市に移り、前田藩の士族で、祖父は町奉行、父は和歌俳諧の先生をして御殿に使へた浅野家の娘(私の母)を嫁に貰つた。悠長な士族の家に育つて、遊芸三昧に日を暮らした私の母は、商家の家風とは何事も合はず、姑に苛られて、年中出るの入るの騒ぎをしてゐたのである。
 汽車が水橋近くに進むと、私の心が動揺した。二十年前にちよつと帰省したときも、酒屋をしてゐる「尾島屋」といふ本家に一泊したが、その後お互ひに年賀状さへも絶えてゐるので、家族の生死すら今は不明なのである。なんとしても感傷的にならざるをえない。蜃気楼で有名な魚津、それから滑川、そして水橋、水橋とよんだ。昨日は黒部峡谷の秋色を探るために宇奈月温泉で一泊したが、宴会や何かでひどく盛つてゐた、けれど今日の列車は殆ど空つぽで、私は一人悄然と下車した。午後四時ごろで、空がどんよりとくもつてゐた。落莫とした小さな駅だから、赤帽なんかもゐない。荷物をどうしたものかと、そこに立つてゐる駅長に訴へると、それでもバスの車掌をよこしてくれた。長い年月、都会生活に慣れた私の眼には、心の底から寒々するほどの佗しい村であつた。

 土地の人たち四五人と一しよに小さなガタバスに乗り、酒屋の前でおりた。昔と同じに七八間もずつと紅殻格子の入つた北国風の軒下に、開け放された店の入口がある。そこの土間へトランクを一つ宛運び、酒倉につゞく内廊下のだゝつ広い茶の間へ顔を出した。
「お客さんが来られました。」
 勝手の方からひよいと出て来た婆やらしいのが、すぐに奥へ知らせた。
「まあ、よう来られましたね、昨日からあんた、どないにか待つとりましたぞいね、待つて待つて…………」
 懐かしさうに私の手を取つたのは、年老つた主…

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