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汽船が太平洋を横断するまで
きせんがたいへいようをおうだんするまで |
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作品ID | 50359 |
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著者 | 服部 之総 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「黒船前後・志士と経済他十六篇」 岩波文庫、岩波書店 1981(昭和56)年7月16日 |
初出 | 「中央公論」1931(昭和6)年11月号 |
入力者 | ゆうき |
校正者 | 小林繁雄 |
公開 / 更新 | 2010-06-21 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 29 ページ(500字/頁で計算) |
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さてアメリカだ。この国に生じた最も重大な、二月革命よりもっと重大な事実は、カリフォルニヤ金鉱の発見である。発見後せいぜい十八ヶ月の今日、既にこれがアメリカの発見そのものよりも遙かに大規模な結果を齎らすだろうことを思わせる。
――カール・マルクス
一八五〇年一月三十一日
一 扁平な世界
悲喜劇にはじまった飛行機の太平洋横断は、実現までにどれほど騒々しいジャズの幾場面をもったものかしれないが、これにくらべると汽船のそれは、記録も怪しいくらい忘失された出来事のように見えて、じつははるかに大掛りなメロドラマだった。
汽船にだって賞金付で騒がれた歴史はある。一八二四年には、一定日数内に英印間を乗切った汽船にたいする八千ポンドの賞金がインドで発表された。そのため四百七十トン百二十馬力の汽船がデットフォードで造られ、翌二五年八月十六日にファルマウスを解纜、百十三日目にカルカッタに着いた。だが、賞金が出るくらいだから、大洋航路が汽船会社の算盤に合うのはまだまだのことだった。さてこそ、これと前後して、インド政府に身売のつもりで英国から押渡った汽船ファルコン号は、あわれ生新しい汽罐も両輪もはぎとられて、ただの帆船としてやっと買手がついたという。
大洋航路の汽船会社は、ようやく三十年代の終頃になって設立された。
東洋航路 The Peninsular & Oriental Steam Navigation Company(P & O), 1837
大西洋航路 The Cunard Company, 1838
太平洋航路 The Pacific Steam Navigation Company, 1840
だがこれで七つの海にことごとく汽船が通じたと考えてはならない。「太平洋汽船会社」とは名乗っても、実はリヴァープールと南米の太平洋岸チリ、ペルーをつなぐラインで、いにしえのバルボアのように、太平洋を覗いたというまでのことだ。サザンプトンを起点とする、P&O(彼阿)は、スエズを“overland route”で連絡しながら、一八四五年には香港まで延びた。しかし太平洋は依然一隻の汽船も渡らなかった。汽船にとって世界はまだ扁平だった!
太平洋を横断するための性能がまだ汽船になかったのであるか――昨今までの段階における飛行機のように?
どうして! すでに一八四三年に三千二百七十トン一千馬力というのが北大西洋に煙を吐いていた。よし両輪船だろうが、低圧の単式機関だろうが、炭庫を広くとりさえすれば、ボイラーの水は六十年代中頃まではふんだんに海水を使っていたのだ。実際これに似た技術条件の下で、英濠間を無寄港で乗切れる一万九千トンの巨船が、五十年代の海に浮んだものである!
で、渡ろうと思えば――渡るだけのことなら――いつでもできた。しかし、だいいち帆船にしてもが、一…