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黒田清隆の方針
くろだきよたかのほうしん |
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作品ID | 50360 |
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著者 | 服部 之総 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「黒船前後・志士と経済他十六篇」 岩波文庫、岩波書店 1981(昭和56)年7月16日 |
初出 | 「歴史家(三号)」1954(昭和29)年5月 |
入力者 | ゆうき |
校正者 | 小林繁雄 |
公開 / 更新 | 2010-10-21 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 16 ページ(500字/頁で計算) |
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黒田清隆の伝記があれば、だれか教えていただきたい。東大史料編纂所では、みつからない。北海道には手がかりがあろうかとおもって、この小文を思いたったしだいである。
北海道開拓次官となって樺太に発つのが明治三年七月二十七日(『大久保利通日記』)、井上清氏の労作『日本の軍国主義』につぎの記載がある。
「政府は七〇年二月樺太開拓使を置いた。ついで五月に黒田清隆を開拓使次官に任じ樺太政務を兼摂、七月樺太に出張して露国士官と協議させた。そのさい黒田は、係争事件はことごとく無雑作に譲歩してしまい、九月帰京するや“樺太ノ経略、断然之ヲ棄テテ魯西亜ニ附シ、力ヲ無用之地ニ労セズ、之ヲ上策トス。タトヒ一歩ヲ譲ルト雖モ経略ヲ画定ス、之ヲ中策トス。雑居ノ旧ニ依リ機ヲ待テ断然之ヲ棄ルヲ下策トス”と建議した。おどろくばかりの屈服である。岡本や丸山のような攘夷家が、かかる長官をいただけば憤然辞退するのは当然だ(森谷秀亮氏『明治時代』)」(第二巻、三四頁)。
黒田が八月久春古丹から大久保利通に出した書簡は『北海道史』(第三巻)にある。九月には函泊、遠淵の首長と会ったりしているから、帰京は十月中のことだろう。その十月二十八日付で、大蔵少輔伊藤博文が幣制調査のため渡米したいという建白を出し、同十月三日許可され、十一月二日横浜を出帆してアメリカにわたる。黒田開拓使次官が北海道開拓計画をアメリカに学ぶため伊藤のあとを追って渡米するのは、翌明治四年一月のことである。
伊藤はずっとアメリカに滞在してこの年五月九日帰国している。黒田のほうは、農務長官ホーレス・ケプロンの召聘に成功して、その足でヨーロッパを一まわりして四年六月に帰国している。『大久保利通日記』七月五日には黒田の名が出ているから、廃藩置県(七月十四日)直前に帰っているのである。ついでながら西園寺公望が渡仏のコースをアメリカ経由にして、横浜を発つのが伊藤より一月おそい明治三年十二月三日で、四年一月十四日大統領グラントに謁見している。
当年の日本外交は、一〇〇パーセント親米――いまどきの文字をつかえば、向米一辺倒であった。
「わが当局もまた英公使パークスの高圧的な態度に不快を感じていたので、討伐闘争いらいの英国依存をアメリカに乗換えたのであった。」(井上氏前掲、四〇頁)。
問題はいつから乗換えたか、ということである。
討幕薩長同盟いらいの向英一辺倒が鋭角的に突如向米一辺倒に転換するのは、私の考えでは、明治三年五月下旬のことである。
アメリカの内乱が終って五年めに、日本の内乱が終った。その明治二年正月とともに、日本の鉄道利権をめぐって、猛烈な米英抗争の幕がきっておとされる。
アメリカ領事館書記官A・ボルトメンが倒壊寸前の徳川幕府当局から江戸横浜間の鉄道利権を取った日付は慶応三年丁卯十二月二十三日、一八六七年十月十七日となっている(こ…