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志士と経済
ししとけいざい
作品ID50363
著者服部 之総
文字遣い新字新仮名
底本 「黒船前後・志士と経済他十六篇」 岩波文庫、岩波書店
1981(昭和56)年7月16日
初出「歴史科学」1934(昭和9)年10月号
入力者ゆうき
校正者小林繁雄
公開 / 更新2010-08-05 / 2014-09-21
長さの目安約 22 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 幕末に取材する大衆文芸は一部志士文芸(?)でもあるが、志士活動の基底にどんな社会経済が横たわっているのかはっきりしないものが多い。股旅物、三尺物の主人公が何で食っているかはいかにもはっきりしているが一歩すすんで、彼らの生活の物質的な地盤となっている社会経済――いわゆる旦那衆を構成する特定社会層の本質となると描かれていることがもう稀だ。筋の波瀾と離合のからくりが、いつかつくりばなしめいて感じられ、現実性と迫力を失ってしまう一半の原因は、そこらへんからくるのではあるまいか。
 本来、志士なるものが大量的に登場するのは、安政以来のことで、万延・文久度のほうはいたる行動期となって、真木和泉『義挙三策』に見るように、みずから「義徒」と呼んだ。もとよりさまざまな出身で、一概にいえぬが、大量的支配的な現象として、無位無官「草莽」志士の地盤には、全国諸地方の新興産業商業の勢力が、脈々として息づいている。
 この謂は、ことに初期の志士その人が多く文人学士で、時にひどい貧乏に耐えていた事態と、べつに背馳するわけでない。無産者運動の草分が小ブルジョア層から出たように究局は社会的な深い矛盾が、諸個人の思想と行動を乗せてゆくので、貧乏かくごで藩権にも幕権にもあえて屈しようとせぬ面魂が、そもそも物をいっているのである。
 妻は病牀に臥し児は飢に号くと詠った梅田雲浜の貧乏は一通りのものではなかった。姪の矢部登美子に雲浜みずから述懐した話というのに、信子が嫁にきた時分(弘化元年雲浜三十四歳)、自分はこの京都にある藩校望楠軒で講主をしていたが、赤貧洗うがごとくで、妻帯なぞは思いもよらぬ。かたく断わったが、立斎先生(上原立斎)は娘をどうでも貰ってくれといって、他に許婚までしてあったのを破約して無理やり信子を押付けてしまった。むろん信子が才色兼備の女だとは、かねて知っていたものの、まだ二十歳に足らぬ女で、どうするだろうと危ぶんでおった。そのうちに長女竹子をあげる(弘化三年)、家はますます貧乏になる、たった二畳敷の浪宅に親子三人が、日に一食か二食で暮せるうちはまだしもよかったが、後にはそれさえ窮して、『大日本史』数葉を書写して門人の鳴尾(順造)に二朱で売ってやっと粥を炊いて凌いだこともあった。信子は辛がりもせず、事足らぬ住居なれども住まれけりわれを慰む君あればこそ、などと詠み、いじらしい心根であったと、暗然として亡妻をしのんだ。
 雲浜が藩の忌諱にふれて素浪人になったのは嘉永五年でこの年長女竹子についで長男繁太郎が生れ、おまけに雲浜自身病気あがりで、どうにも凌ぎがつかぬところから、一時洛西高雄に引移ってかねて覚えのある医者の看板を出したが、内外情勢を見てじっとしておれず、江戸、水戸、郷里福井に遊説し、れいの臥床号飢の訣別詩を賦して十津川郷士の一隊を連れ大阪湾のプチャーチン乗艦に当ろうとした…

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