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犬
いぬ |
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作品ID | 50374 |
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著者 | 島崎 藤村 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「筑摩全集類聚 島崎藤村全集第五巻」 筑摩書房 1981(昭和56)年5月20日 |
初出 | 「中央公論」1913(大正2)年1月 |
入力者 | 林幸雄 |
校正者 | 岩尾葵 |
公開 / 更新 | 2018-03-25 / 2018-02-25 |
長さの目安 | 約 9 ページ(500字/頁で計算) |
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此節私はよく行く小さな洋食屋がある。あそこの鯛ちり、こゝの蜆汁、といふ風によく猟つて歩いた私は大きな飲食店などにも飽き果てゝ、その薄汚い町中の洋食屋に我儘の言へる隠れ家を見つけて置いた。青く塗つた窓際には夏からあるレエスの色の褪めたのが掛つて居る。十二月らしい光線は溝板の外の方から射し入つて、汚点の着いた白い布の掛つた食卓の上を照して居る。そこに私は下駄穿きのまゝ腰掛けた。
一生のさかりといふべき私の三十代は数日のうちに尽きようとして居る。何となく静止して居られないやうな気がする。私は厭はしい日のみ続いた斯の一年を忘れるといふよりも、三十歳の終りのしかも誕生にあたる日に、用事ありげな人達が窓の外を往つたり来たりする寒い年の暮の空気の中で、独り半生の悔恨に耽らうとした。私は今日まで逢ひ過ぎるほど逢つたいろ/\な男や女の顔を見るにも堪へない。さうかと言つて、斯の洋食屋から半町とない大川の水が鉄橋の下にある石の柱の方へ渦巻き流れて行くその岸の引き入れられるやうな眺めを見るにも堪へない。眼前にあるソースや辛の入物だの、ごちや/\置べた洋酒の瓶だの、壁紙で貼りつめた壁だの、その壁にかゝる粗末の額、ビイルの広告などは、反つて私の身を置く場所に適しかつた。
私は人並に賢い人間のつもりで居た。けれども今といふ今になつて、つく/″\自分の愚劣なことを知つた。私には何卒して一生のうちに自伝を書いて見たいといふ心があつた。恐らく斯の心は私ばかりではあるまいと思ふ。丁度私のやうにして半生を費して来たものは、自伝の到るところに得々として女の名を書きつけ容貌の好し悪し、気立、年齢、触れた肌のかず/\、其他愚かしいことの多ければ多いほど寧ろそれを誇りとしたであらうと思ふ。そして、読返して見て、斯の通り自分が愚かしい、しかしこれより愚かでないと言へる人間があるか、と問ひ返すであらうと思ふ。世にこれほど自分の愚劣を表白することはあるまい。私は今に成つて、見物の喝采の前に自分の為したことを舞台の上で繰返して見せる年老いた毒婦の心を読むことが出来る。
私には人に愛せらるゝ性質があつた、人の心を引くに足るだけの容貌もあつた。自分で言ふも異なものではあるが、私はよく手入れをした髪と、隆い筋の通つた鼻と、浅黒くはあるがしかしきめの細い光沢のある皮膚とを持つて居た。のみならず、いかにせば斯の容貌を用ふべきかといふことをも知つて居た。私には又、若々しさがあつた。力があつた。殊に私は婦人の前で自分を大きくして見せ得る不思議な力と、慇懃を失はない程度で大胆に勝手に振舞ひ得る快活さとをも持つて居た。斯うして私は何事も自分等の為ることを考へて見たことも無いやうな、慣れて知らずに居る人達に取巻かれて、唯青春の血潮の湧き立つまゝに快楽を追ひ求めた。私は求めたものが与へらるゝばかりでなく、求めないものまでも与へ…