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死の床
しのとこ
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「筑摩全集類聚 島崎藤村全集第五巻」 筑摩書房
1981(昭和56)年5月20日
初出「文章世界」1912(明治45)年3月
入力者林幸雄
校正者岩尾葵
公開 / 更新2018-08-22 / 2018-08-21
長さの目安約 8 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

「柿田さん、なんでもかんでも貴方に被入しつて頂くやうに、私が行つて院長さんに御願ひして来て進げる――左様言つて、引受けて来たんですよ。」
 流行の服装をした女の裁縫師が、あの私立病院の応接間で、日頃好きな看護婦の手を執らないばかりにして言つた。
 柿田は若い看護婦らしい手を揉み乍ら、
「多分行かれませう。丁度今、私も手が空いたばかし……先刻貴方から電話を掛けて下すつた時院長さんにも伺つて見たんです。病院の規則としては御断りするんだけれど、まあ他の方でないからツて、院長さんも左様仰るんですよ。」
「左様して下さいな。貴方のやうな方に来て頂くと、奈様に病人も喜ぶか知れません。」
「大変ですね……何ですか私でなけりや成らないやうですね。」
「いえ、是非貴方に御願ひして来て呉れろツて、病人も頼むんです。それでわざ/\参上つたんです。私が貴方をよく知つてることを病人に話したもんですから……私は柿田さんが大好きツて……。」
 二人の女は応接間の腰掛に腰掛けながら、互に快活な声で笑つた。
 裁縫師の調子は、病人が頼みたいと言ふよりは、自分が頼みたい、と聞えた。それほど斯の女は柿田を贔負にして居た。
 院長にも柿田を借りることを頼んで置いて、裁縫師は帰つて行つた。
 その翌日から、柿田は裁縫師の極く懇意なといふ家へ行つて、寝て居る内儀さんの傍で、看護することに成つた。柿田が一目見た時の内儀さんは、頬骨の尖つた、顔色の蒼ざめた、最早助かりさうも無い病人で有つた。でも気は極く確かで、寝ながら種々なことに注意して、人に嫌がられまいとする様子さへ見えた。
 そこは大経師とした看板の出してある家だ。病人の寝床は二階に敷いてあつたから、柿田は物を持運ぶ為に、高い天井に添うて楼階を昇つたり降りたりした。鋭い病人の神経は、眼に見えない階下のことを手に取るやうに知つて居た。亭主が店で何をして居るか、弟子が何をして居るか、女中が台所の方で何をして居るか、そんなことは内儀さんには見透すやうによく解つた。時々、内儀さんは櫛巻にした病人らしい頭をすこし擡げて、種々雑多な物音、町を通る人の話声、遠い電車の響までも聞いた。表の入口にある硝子戸の音がしても、直にそれが店の用事の人か、それとも自分のところへ見舞ひに来て呉れた客か、と耳を澄ますといふ風だ。
 近くに住む裁縫師は殆んど毎日のやうに見舞ひに来た。内儀さんとは、若い時からの知合で、それに斯の女の出して居る洋服店は経師屋の家作だつた。裁縫師は病人の寝床の側で、白い被服を着けた柿田の様子を一緒に眺めて、
「奈何です、好い看護婦さんでせう。」
 と言つて聞かせるばかりでなく、どうかするとそれを亭主の居る前でも言つた。
 柿田が斯の家の者に取つて、無くて成らない人のやうに思はれて行つた頃は、内儀さんの病は余程重かつた。ある日、柿田が病人の枕許で、寝乱れた髪…

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