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灯火
あかり
作品ID50377
著者島崎 藤村
文字遣い新字旧仮名
底本 「筑摩全集類聚 島崎藤村全集第五巻」 筑摩書房
1981(昭和56)年5月20日
初出「太陽」1912(明治45)年6月
入力者林幸雄
校正者岩尾葵
公開 / 更新2019-08-22 / 2019-07-30
長さの目安約 15 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 飯島夫人――栄子は一切の事を放擲する思をした後で、子供を東京の家の方に残し、年をとつた女中のお鶴一人連れて、漸く目的とする療養地に着いた。箱根へ、熱海へと言つて夫や子供と一緒によく出掛けて行つた時には、唯無心に見て通り過ぎた相模の海岸にある小さな停車場、そこへ夫人はお鶴と二人ぎり汽車から降りた。
 夫人はまだ若かつたが、子供は三人あつた。新橋を発つから汽車中言ひ暮して来たそれらの可愛いものからも、夫からも、彼女は隔絶れたところへ来た。
「母さん来たよ。」
 と夫人は、斯の海岸に着いたことを子供に知らせるやうに、独り口の中で言つて見た。そして周囲を見廻して寂しさうに微笑んだ。
 停車場側に立つて車を待つ間、夫人はお鶴の前に近く居ながら、病院のあるといふ場処を大凡の想像で見当を附けて見た。二筋の細い道が左右にあつた。その一つは暗い松林に連なり、一つは旧い東海道の町へでも出られさうな幾分か空の開けた方へ続いて居る。悪く狡れた眼附の車夫が先づ車を引いて来て、夫人が思つたとは反対の方角を指して見せて、その病院も、夫人がこれから行つて先づ宿を取らうとする蔦屋も、松林の彼方にあたると言つて聞かせた。一帯に引続いた遠見の緑は沈鬱で、それに接した部分だけ空は重い黄色に光つて見えた。
 間もなく三台の車がそこへ揃つた。一台へは荷物を積んだ。それを先頭にして、夫人とお鶴とを乗せた車は順に砂地の道を軋り始めた。
「奥様、御寒か御座いませんか。」
 とお鶴は車の上から声を掛けた。
 そよともしない松林、小鳥の声一つ聞えない木立の奥には同じやうにヒヨロヒヨロと細く生えた幹が暗く並んで、引入れられるやうな静かさが潜んで居た。細道の砂を踏む音をさせて、車夫等が進んで行つた時は、一層静かな林の間へ出た。海に近いことは感じられても、遠くの方は死んだやうに沈まり返つて、浪の音もしなかつた。
 暮色が迫つて来る頃であつた。煙るやうな空気はすべての物を包んだ。
 そのうちに、車は病院の入口らしいところへ出た。松林の一区域を囲つて、白いペンキ塗の柱が建てゝある。薄明るい中を走つて来て、角の街燈に火を入れて行く人もあつた。
 夫人は車の上からお鶴の方を顧みて、
「お鶴、こゝが病院の入口だよ、海浜院としてあるよ。」
 と言つて聞かせたが、朦朧とした林の奥の広さが想像されるのみで、建物は見えなかつた。
 斯の一区域について折れ曲つて行つたところに、人家がゴチヤゴチヤ並んで居た。そこは海浜院の横手にあたつて、旅館の蔦屋だの、別荘風の建物だのが有るところだつた。車夫は梶棒を下した後で、そここゝに灯の泄れた家を指して見せて、病院通ひの患者が住むことを夫人に話した。
 蔦屋には東京から出した荷物も届いて居た。二階へ案内されてから、夫人は寒い東京の方に置いて来た子供の噂をして、やがて途中のことまで思出したやうに、

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