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大森彦七と名和長年
おおもりひこしちとなわながとし
作品ID50409
著者松本 幸四郎
文字遣い新字旧仮名
底本 「日本の名随筆 別巻10 芝居」 作品社
1991(平成3)年12月25日
入力者浦山敦子
校正者noriko saito
公開 / 更新2011-07-15 / 2021-12-08
長さの目安約 8 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

「大森彦七」は師匠団十郎が福地桜痴居士に書卸していたゞき、明治三十年十月の明治座で初演され、大好評を博した狂言で、後日新歌舞伎十八番の中にも加へた当り芸なのですが、居士が脚本を書き上げて内読をした時、団十郎は正成戦死の物語を素で行きたいと希望し、更に狂乱になつて踊りたいから文句を書加へてほしいと注文したところ、居士は即座に承諾して「太平記」の中にある俗謡「この頃都で流行るもの云々」を生ではめこみ、居士の博職と機智に感心させられたといふ話が残つてゐます。そんなわけで「大森彦七」の後半は団十郎の創意によつたもの、のみならず振附師の花柳寿輔がつけた振が気に入らず、殆ど全部御自分で振りをつけてしまつたのですから、此の狂言の成功は師匠の功といへませう。
 その頃活歴物の評判があまりよくなく、悪口ばかり叩かれるので、団十郎は特に座方に注文して、小番附の絵を鳥居風の極く古風な荒事様に描かせることにし、観客はその絵を見て昔風の芝居だらうと思つて来てみると、意外にもそれが活歴もので、しかも非常に面白かつたため、以来活歴の人気が勃興したといはれてゐます。
 私は運が悪く、師匠の大森を殆ど見てゐないのです。その明治座の時には折悪しく出勤してゐなかつたし、裏木戸から度々入つて見せて貰ふのもいやでしたし、といつて表から行く程の力もない頃でしたので、一度師匠の楽屋へ挨拶に行つた時、そつと揚幕へ廻つて終りの方だけ少しのぞき見したことがあるだけなのです。その後大阪梅田の歌舞伎座で此の狂言が出た時には、私も一つ芝居に出てゐならがら北の新地へ毎日踊を教へに行つてゐて時間がなく、とう/\師匠の大森をゆつくり見る機会がなかつたのでした。
 そのくせ師匠ゆづりの当り芸のうち、此の大森は勧進帳に次いで私の上演数の多い狂言なのです。初演は明治三十八年九月に師匠の追善芝居を歌舞伎座で興行した時で、当時猿之助といつてゐた段四郎と一日交替で演じたのですが、段四郎も師匠の大森を一度も見たことのない人だつたのです。で、私は初演の時相手役の千早姫を演つた女寅(後の門之助)に聞きましたが、何分女形のこととて立役の方のことはよく分りません。あつちこつち聞き廻つたりして随分苦労をして纏め上げたのですから、師匠ゆづりといつても師匠のとはかなり違つてゐると思はれます。
 いつでしたか或る雑誌で「団十郎の事を聴く座談会」といふのがあり、その会に出席してゐた或る人から、師匠の大森は正成からとつた宝剣を袋に入れず、普通に差してゐたが、さうしないとはじめから千早姫に出逢ふのを知つて持つて歩いてゐたやうだ、との説が出たことがありました。私は自分の考へで袋に入れて持つて出ますが、あれは御物を忝けなくも正成に賜はつたもので、正成戦死の後は大森の台詞にもある通り、「肌身離さず守護致しまかりある」のです。私は肌身離さずといふのは懐中に入れてゐ…

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