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畦道
あぜみち
作品ID50437
著者永井 荷風
文字遣い旧字旧仮名
底本 「葛飾こよみ」 毎日新聞社
1956(昭和31)年8月25日
初出「勲章」扶桑書房、1947(昭和22)年5月10日
入力者H.YAM
校正者米田
公開 / 更新2010-10-18 / 2016-02-21
長さの目安約 11 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 國府臺から中山を過ぎて船橋の方へと松林に蔽はれた一脈の丘陵が延長してゐる。丘陵に沿うてはひろ/″\した平野が或は高く或は低く、ゆるやかに起伏して、單調な眺望にところ/″\畫興を催すに足るべき變化を示してゐる。
 市川に移り住んでから、わたくしは殆ど毎日のやうに處を定めずそのあたりの田舍道を歩み、人家に遠い松林の中または窪地の草むらに身を沒して、青空と雲とを仰ぎ、小鳥と風のさゝやきを聞き、初夏の永い日にさへその暮れかけるのを惜しむやうなこともあつた。
 然しわたくしの眺めて娯しむ此邊の風景は、特に推賞して人を誘つて見に行くべき種類のものではない。謂はゆる名所の風景ではない。例へば松林の間を貫く坂道のふもとに水が流れてゐて、朽ちた橋の下に女が野菜を洗つてゐるとか、或は葉[#挿絵]頭の淋し氣に立つてゐる農家の庭に、秋の日を浴びながら二三人の女が筵を敷いて物の種を干してゐるとか、又は、林の間から夕日のあたつてゐる遠くの畠を眺めて豆の花や野菜の葉の色をめづると云ふやうな事で。一言すれば田舍のどこへ行つても見ることの出來る、いかにも田舍らしい、穩かな、平凡な風景。畫を習ひ初めた學生のカンバスには一度は必ず上されべき風景に過ぎない。特徴のないだけ、平凡であるだけ、激しい讃美の情に責めつけられないだけ、これ等の眺望は却て一層の慰安と親愛とを催させる。普段着のまゝのつくろはない女の姿を簾外に見る趣にも譬へられるであらう。
 東京にゐる友達の一人に、わたくしは散策の所感を書いて送つた。すると其友は返書を寄せたのみならず、或日ふらりと尋ねて來て、
「わたしもあの邊の田舍道にはいさゝか思出があるのです。法華經寺の奧の院からすこし行くと競馬場があつたのですが、戰爭後はどうなつたでせう。」と言つた。
「競馬場は今でもそのまゝ殘つてゐるやうです。然しペンキ塗のあの建物と、無線電信の鐵柱は、むかし向嶋の風景を見に行つた人達が藏前と鐘ヶ淵の烟突をいやがつたやうなもので、わたしは成りたけあゝいふ物の見えない方面を歩くことにしてゐます。」
「イヤ全くさうですよ。あなたの御手紙を讀んで、わたしの思出したのもまづさういふやうな事なのです。わたしは後にも先にも競馬場なんぞへは、たつた一度あの中山へ連れられて行つた事があるだけです。戰爭前の事でしたから、早いものです。もう十年になります。最初に結婚した女ですがね。その女は競馬がすきでした。競馬にかぎらず、世間の人の噂をする處へは、芝居でもダンスホールでも、海水浴でも、どこへでも行きたがる女でした。わたしはまた反對に、競馬にかぎらず、相撲でも野球でも、何に限らず勝負事には少しも趣味を持つてゐません。見てゐる中にすぐ飽きてしまふ方なんです。貰つてから間もない頃のことでしから[#「ことでしから」はママ]、勸められるがまゝ、まアどんなものか行つて見やうといふ氣…

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