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金魚
きんぎょ |
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作品ID | 50446 |
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著者 | 鈴木 三重吉 Ⓦ |
文字遣い | 旧字旧仮名 |
底本 |
「鈴木三重吉全集 第二巻」 岩波書店 1938(昭和13)年5月15日 |
入力者 | 林幸雄 |
校正者 | noriko saito |
公開 / 更新 | 2010-07-24 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 9 ページ(500字/頁で計算) |
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町に金魚を賣る五月の、かうした青い長雨の頃になると、しみ/″\おふさのことが思ひ出される。今日も外にはしと/\と蜘蛛の糸のやうな小雨が降る。金魚の色ばかりを思ひ浮べても物淋しい。おふさを思へばうら悲しい。
二人はあの青山の裏町の、下二た間と二階一と間だけの小さい家に住んでゐた。
はじめて世に出す作にかゝつてゐた私は毎晩夜學へ講義に行く外は、晝はいちんち二階に籠つて一字/\に血も黒くなるやうな思ひをして、一つところを消したり直したりばかりして、狂人のやうになつて書いてゐた。おふさはその間下でたつた一人、悄んぼりと、下手な手習ひなぞをして坐つてゐた。今から思へばそれも半分は體の惡いせゐだつたのだらうけれど、おふさはその頃は所つ中はき/\しない顏ばかりして、欝ぎ込んでゐた。
私にはおふさのさういふ心持も解つてゐた。おふさが私のところへ來てゐることが母親の方へ知れてからは、絶えず手紙で以てしつつこく責められて、一ん日も延び/\した心持がしないらしいといふことは私も察してゐた。それでも私はあれの母親が何と言つて來ても、おふさには手紙を出させなかつた。しまひには母親は私へ當てゝさま/″\の事を言つて來る。そんなものはおふさには見せはしないけれど、母親からの手紙だと見れば、何が書いてあるかはおふさにも解る。そんな事で、私に對してもすまない/\といふ念が、おふさの心を痛めてゐるといふことも解つてゐた。けれども私は書かうとする事が甘く書けないと無暗にいら/\して、そんな事に思ひやりもなく、罪もないおふさに當り散らすことが度々であつた。くさ/\して下へ下りて來てもおふさがたゞ自身のことばかりを考へ入つてゐるやうに、涙ぐんだ目もとを伏せて、火のない火鉢の傍に坐つてしよんぼりしてゐるのを見ると、私は、おふさが、私と私の事業とに何の同情も持たないで、自分勝手のことばかりにくよ/\してゐでもするやうに思はれて、一人土の中にでもゐるやうな、ゐたゝまれない寂しさにいら/\して、おふさの沈んだ頸足に髮の解れの下つてゐるのをかこつけに、ものゝたしなみのない、自墮落な女だと言つて八釜しく叱りつけたりした。私がかれこれ半歳も入院した後だつたので、行李の中の二人のものが一つもなくなつてゐるやうな貧しさも、私にひがみを起させた。或時はおふさの態度を曲解して、そんなに貧乏が辛いくらゐなら、こんなところにゐないで出て行つてしまへと言つて、夜遲くおふさを突き出さうとしたこともあつた。
その他に、いろんなことで隨分無理を言つてがみ/″\叱りつけたのも、今から思へばみんな私が惡いのだけれど、その時には、一途におふさを惡んで當り散らした。それでもおふさはすべてが自身の罪のやうに、どんなことをされても言はれても、たゞ默つて怺へてゐた。時には私も、おふさをひどく叱りつけた直ぐあとで、自分が無理だつた事を悔い…