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フランケンシュタイン
フランケンシュタイン |
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作品ID | 50480 |
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副題 | 03 著者について 03 ちょしゃについて |
著者 | 宍戸 儀一 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「フランケンシュタイン」 日本出版協同 1953(昭和28)年8月20日 |
入力者 | 京都大学電子テクスト研究会入力班 |
校正者 | 京都大学電子テクスト研究会校正班 |
公開 / 更新 | 2009-08-30 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 3 ページ(500字/頁で計算) |
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この作品を書いたマリー・ウォルストンクラフト・シェリー(Mary Wallstoncraft Shelley)は、一七九七年に生れた。生れて数日のうちに母が亡くなったが、この母こそ、女権論者として有名な『婦人の権利の擁護』の著者マリー・ウォルストンクラフト・ゴドウィンで、イギリス無政府主義理論の開祖といわれるウィリアム・ゴドウィンの妻であった。母を失ったマリーは、この父の暖かい薫陶のもとに育ったが、牧師を辞めて文筆生活に入っていた父の、ぺイン、コールリッジ、ラム、サウジー等、文人や思想家との交友を通して刺戟を受け、少女期を過ごしたスコットランド地方などの荒涼たる自然を通して、独自の想像力を養った。マリー自身、スコットランドのダンディー附近を流れるテイ河の北に住んでいたころのことを、つぎのように語っている。「そこを回顧すると、がらんとしてものさびしい所なのだが、当時の私にはそう見えなかった。それは、自由のアイアリ(猛鳥の巣)であり、自分の幻想の被造物と交わることのできた、誰も顧みない、楽しい地方であった。」
父は、無政府主義的、共産主義的な理論の一古典として知られる例の『社会的正義に関する研究』の著者として、マルサスの人口論を駁し、無政府社会の理想を熱切に説いたが、その客間にしばしば現われて深い影響を受けた若者の一人に、後にバイロン、キーツとともに近代イギリスの三大詩人と謳われるにいたったパーシー・ビッシ・シェリーがあった。シェリーははじめ、オクスフォード大学に席をおいたが、『無神論の必要』(一八一一年)を書いて学校から追放され、革命詩人としての天才的光芒をますます鮮かに示しつつあった。マリーは、このシェリーと親しくなり、ついに二人でスイスへの旅に出かけ、シェリーの最初の妻ハリエットが自殺したので、正式に結婚し、イタリアへ移住した。ミラノを振り出しに、ヴェネチア、ナポリ、ローマ、リヴォルノ、フィレンツェ等をめぐり、一八二九年にピサに定住することにした。三年後の一八二二年に、湖水で舟が覆ってシェリーが溺死したことは、ここで言うまでもない。あとに残されたマリーの哀しみは察するに余りがある。
マリーは一八五一年まで生き、そのあいだに、イタリア中世期に取材した『ヴァルペルガ』(一八二三年)、未完成に終った『最後の人』(一八二六年)、なかば自伝的な『ロドーア』(一八三五年)等の作品を書いたり、夫シェリーの詩の編集に従事したり、紀行文を発表したりした。しかし、世界文学史のうえで独特の位置を永遠に要求するのは、夫の生前に書いたこの『フランケンシュタインまたは今様プロメテウス』一作であろう。
その伝記としてはヘレン・ムーアのもの(一八八六年)、F・A・マーシャル夫人のもの(一八八九年)ルーシー・マドックス・ロゼッチのもの(一八九〇年)が、ふつう挙げられている。 (訳者…