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![]() わがきょういくのけっかん |
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作品ID | 50532 |
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著者 | 新渡戸 稲造 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「新渡戸稲造論集」 岩波文庫、岩波書店 2007(平成19)年5月16日 |
初出 | 「英文新誌 一巻一七号」1904(明治37)年3月1日 |
入力者 | 田中哲郎 |
校正者 | ゆうき |
公開 / 更新 | 2010-04-27 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 5 ページ(500字/頁で計算) |
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我政府が教育上に於ける施設の多大なることは否むべからず。明治年代の教育法は、維新前の教育法を継承せるものに非ずして、全く新軌道を取れるものなれば、その事業の宏大なることもまた否むべからず。この新教育制度の成功の量の大なることも、また否むべからず。されどああその成功や過ぎたり矣。今日の教育たるや、吾人をして器械たらしめ、吾人よりして厳正なる品性、正義を愛するの念を奪いぬ。一言にしていわば、これぞ我祖先が以て教育の最高目的となしたる、品格ちょうものを、吾人より奪い去りたるものなる。智識の勝利、論理の軽業、あやつり、哲学の煩瑣繊微、科学の無限なる穿究、これらはただ吾人を変えて、思考する器械たらしむるに過ぎざるものなりとせば、畢竟何の益かある。フレーベル及びヘルベルトの教育法も、もしこれらが吾人の目にある眼鏡に過ぎずして、活ける器関たらずんば、果して何の利する処かある。
吾人は智識を偶像として拝し、而して智識は情緒と提携するによりてのみ、高大なる真理を捉え得るものなることを忘る。潔くして汚れざる心は、顕微鏡よりも、はた塵塗れの書冊よりも見ること更に明かなり。
予は信ず、人の衷心、聖の聖なる裡に、神性ありて、これのみ能く宇宙間に秘める神霊を認識し、これを悟覚するを得るものなりと。物質界に於てすらも、高尚なる真理は、たとえあるいは心が明かにこれを覚知し、あるいは眼がこれを洞察し得るとも、その覚知認識する所を言語によりて伝えんとせば、必ずや困難なるを感ぜん。科学と哲学とは、けだし無限の長語を以て、この欠乏を補わんがために来れり。
予の見るところを以てすれば、科学上驚異すべき発見は、皆その発見の在るに先んじて、既に久しく人の心に覚知せられたるものなるが如し。語を変えていわば、科学は常に、人の預覚の後えに遅々として来たるものなりと。
その初にはソクラテスの如く、洞察眼を備え、高尚なる思想、清浄純潔なる心念を育して、霊智と親しく交る人あり。これに継ぐに、プラトーの如く、その師の胸裡に雑然として存在したるものを取りて、雄弁荘重なる言語に托するものあり。而して後、アリストートルの如き者ありて、先人が悟覚し、また感応するままに語りしものをば、形式法則に配列す。もしアリストートルにして、ソクラテスの如く、霊智に従うことに忠実ならんか、また師の心に同情すること、プラトーの如くならんか、彼の科学哲学に於ては毫も非難すべきものなけん。されど彼れは感応を犠牲としても科学的ならざるべからず、霊的省観を失うとも、哲理的ならざるべからずとするものならば、彼れたるもの果して人教――完き意義に於ての人教――の最大産物なりや、これ甚だ疑うべし。
我が教育は全力を捧げ、霊性を犠牲として、アリストートルの業をなしたり。これ一椀の羹に、長子の権を鬻ぐものなり。これ我種族伝来の最善なるものに不忠なるこ…