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深川の唄
ふかがわのうた |
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作品ID | 50557 |
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著者 | 永井 荷風 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「すみだ川・新橋夜話 他一篇」 岩波文庫、岩波書店 1987(昭和62)年9月16日 |
入力者 | 門田裕志 |
校正者 | 米田 |
公開 / 更新 | 2010-10-06 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 20 ページ(500字/頁で計算) |
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一
四谷見付から築地両国行の電車に乗った。別に何処へ行くという当もない。船でも車でも、動いているものに乗って、身体を揺られるのが、自分には一種の快感を起させるからで。これは紐育の高架鉄道、巴里の乗合馬車の屋根裏、セエヌの河船なぞで、何時とはなしに妙な習慣になってしまった。
いい天気である。あたたかい。風も吹かない。十二月も早や二十日過ぎなので、電車の馳せ行く麹町の大通りには、松竹の注目飾り、鬼灯提灯、引幕、高張、幟や旗のさまざまが、汚れた瓦屋根と、新築した家の生々しい木の板とに対照して、少しの調和もない混乱をば、なお更無残に、三時過ぎの日光が斜めに眩しく照している。調子の合わない広告の楽隊が彼方此方から騒々しく囃し立てている。人通りは随分烈しい。
けれども、電車の中は案外すいていて、黄い軍服をつけた大尉らしい軍人が一人、片隅に小さくなって兵卒が二人、折革包を膝にして請負師風の男が一人、掛取りらしい商人が三人、女学生が二人、それに新宿か四ツ谷の婆芸者らしい女が一人乗っているばかりであった。日の光が斜めに窓からさし込むので、それを真面に受けた大尉の垢じみた横顔には剃らない無性髯が一本々々針のように光っている。女学生のでこでこした庇髪が赤ちゃけて、油についた塵が二目と見られぬほどきたならしい。一同黙っていずれも唇を半開きにしたまま遣り場のない目で互に顔を見合わしている。伏目になって、いろいろの下駄や靴の先が並んだ乗客の足元を見ているものもある。何万円とか書いた福引の広告ももう一向に人の視線を引かぬらしい。婆芸者が土色した薄ぺらな唇を捩じ曲げてチュウッチュウッと音高く虫歯を吸う。請負師が大叭の後でウーイと一ツ[#挿絵]をする。車掌が身体を折れるほどに反して時々はずれる後の綱をば引き直している。
麹町の三丁目で、ぶら提灯と大きな白木綿の風呂敷包を持ち、ねんねこ半纏で赤児を負った四十ばかりの醜い女房と、ベエスボオルの道具を携えた少年が二人乗った。少年が夢中で昨日済んだ学期試験の成績を話し出す。突然けたたましく泣き出す赤児の声に婆芸者の歯を吸う響ももう聞えなくなった。乗客は皆な泣く子の顔を見ている。女房はねんねこ半纏の紐をといて赤児を抱き下し、渋紙のような肌をば平気で、襟垢だらけの襟を割って乳房を含ませる。赤児がやっとの事泣き止んだかと思うと、車掌が、「半蔵門、半蔵門でございます。九段、市ヶ谷、本郷、神田、小石川方面のお方はお乗換え――あなた小石川はお乗換ですよ。お早く願います。」と注意されて女房は真黒な乳房をぶらぶら、片手に赤児片手に提灯と風呂敷包みを抱え込み、周章てふためいて降り掛ける。その入口からは、待っていた乗客が案外にすいている車と見るやなお更に先きを争い、出ようとする女房を押しかえして、われがちに座を占める。赤児がヒーヒー喚き立てる。おしめが滑り落ち…