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釣聖伝
ちょうせいでん
作品ID50601
著者佐藤 垢石
文字遣い新字新仮名
底本 「垢石釣游記」 二見書房
1977(昭和52)年7月20日
入力者門田裕志
校正者塚本由紀
公開 / 更新2015-09-28 / 2015-05-25
長さの目安約 3 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 幸田露伴博士は凝り屋で有名である。文学の方は本職であるから、別として、一般科学の知識に通暁して居て、家庭の道具でも、遊戯の機械でも自分の手でひねくって見なければ承知しない。
 先生の趣味は格別で、利根川に於ける鱸の素人釣は先生が創始したといっても過言で無いかも知れぬ。三十数年前から利根川へ行って、今日まで釣った鱸の数は何百本とも知れぬだろう。それで錘も鈎も竿も糸掛も、全部手製でなければ承知しない。独特の工夫を施して万事科学的に行こうというのが博士の道楽で、鱸釣の仕掛や道具は何百種類と持って居る。
 海釣はあまり好きでないそうだ。というのは、海釣には独創的の処がない。万事船頭任せで、釣場でも釣方でも船頭の指図に従い、釣人の意見は多くの場合通用しない。これが馬鹿々々しいというのである。
 釣方も、釣場も自分で研究調査してその材料を基調とし、釣れても釣れないでも自分の釣遊気分を満足させようというのが釣の本質であるのだが、海へ行くと、船頭から藤四郎扱いをされながら万事その意見に従わねばならないから面白くない。
 ところが河の釣は、自分の気儘勝手である。高(瀬)を釣ろうが、淵を釣ろうが、竿が長かろうが、矩かろうが好き勝手である。誰も文句をいうものもなければ、指図がましい口もきかない。鱸釣の船頭も極めて質朴でこちらから指図して釣場を選定する。釣方の如きは、却って客の方から教えてやるといった工合に、唯我独尊の境地に遊ぶ事が出来るという関係から、博士三十数年来一貫して利根川の鱸釣に終始して来た。
 仕掛の製作も決して船頭の手を藉りないばかりでなく、日露戦争前までは血気に任せて自ら舟を漕ぎ、好きな釣場へ行って終夜、終日釣り暮らしたものである。利根の分流江戸川では鴻台から流山、利根運河、野田。利根本流では小見川、佐原、木下、取手、関宿、境、権現堂、栗橋、古河と足跡の到らぬところがない。
 先生が釣道具に凝ると途方もない事を考え出し、傍の者を驚かす。先年、夜の鱸釣に金色の道具を使えば、魚の眼を惹きつけて釣果を充分にあげ得るだろうと思いついた。金の鈎は容易に出来るにしても、金のテグスを作るという訳には行かない。
 そこで純金を薄く伸ばして、鈎素のテグス二、三尺の間に巻きつけ、幾度も試めして見たがどうもうまくゆかない。仕掛けて川へ投ずると巻いた金が剥げて流れてしまう。それでも決して諦めはしない。幾度も工夫して釣って居るうちに、遂に度重って莫大な純金を利根川の底へ流してしまった。
 最後に箔をこしらえて、テグスへ塗りつけ絶対に剥げない工夫に成功したそうだが、結局大して鱸釣には効果がなかった、とこぼしたそうである。
 万事がこの通り、生きて居る百科辞典のような博識の学者になったのであるが、これも先年鱸釣に用いる餌の袋イソメが夏の土用中腐り易いので、いろいろ考えた結果、硼酸水に浸けた処、…

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