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奇病患者
きびょうかんじゃ |
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作品ID | 50724 |
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著者 | 葛西 善蔵 Ⓦ |
文字遣い | 旧字旧仮名 |
底本 |
「子をつれて 他八篇」 岩波文庫、岩波書店 1952(昭和27)年10月5日 |
入力者 | 蒋龍 |
校正者 | 川山隆 |
公開 / 更新 | 2010-10-29 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 12 ページ(500字/頁で計算) |
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薪の紅く燃えてゐる大きな爐の主座に胡坐を掻いて、彼は手酌でちび/\盃を甞めてゐた。その傍で細君は、薄暗い吊洋燈と焚火の明りで、何かしら子供等のボロ布片のやうな物をひろげて、針の手を動かしてゐた。そして夫の、今夜はほとんど五合近い酒を飮んでも醉を發しない、暗い、不機嫌な、屈托顏をぬすみ視た。そして時々薪を足して、爐の火を掻き熾した。
外では雪が、音も立てずに降りしきつてゐた。晝頃から降り續けたので、往來は宵のうちに埋つて了つてゐた。
勝手元の水溜桶に、珍しくもないばり/\と氷の張る音が聞えてゐた。茅葺屋根の軒下に宿つてゐる雀が、時々寒氣に堪へ兼ねたやうにチヽと啼いた。彼は小用を足すに、表戸を開けて見た。國道を隔てた前の杉山すら、見ることが出來なかつた。そして悉くが雪に封じ込められた、渾沌とした靜寂の中に、杉山から引いた桶の水ばかりが、鼕々と云つた音を立てゝは落ちてゐた。
隣りの低地のアカシヤの林の中に、堀立小屋を組んで棲んで居る木挽の家のボロ壁の隙間からは、焚火の明りがちら/\洩れてゐた。彼等もまた早寢をしても寒さの爲めに眠れないので、焚火に背腹を炙つては、夜を更かしてゐるのであつた。
「まだ終列車の音がしないやうだね」
彼は爐邊にかへつて來て、肩を慄はしながら獨語のやうに云つた。
「さうですね。どうせもう今夜なんか遲れるでせう。それとも弘前あたりで止まりになるか知れませんね」
「そんなことだらう。……まだある?」
「はい…………」
細君は素直に起つた。そして灰の中にぢかに置いた沸つてる鐵瓶の中へ銚子を入れた。
が彼ももう酒は不味くなつてゐた。が眼口に苦い皺を寄せながら、默つて盃を甞め續けた。そして彼は、内からだん/\と促迫して來てるらしい氣管部の呼吸苦しい壓迫を、酒の醉で胡麻化して了ひたいものだと、思つたのであつた。ある場合には、それも成功した。併し今夜は彼自身にも、それが心細く、頼りなく、感じられてゐた。彼は飮んでも/\、暗い冷めたい穴のやうな處へと、引込まれて行く氣がしてゐた。
「俺はどうも今夜は危ぶないらしい。苦しくなりさうだ……」
「だからお酒はお止めなさいよ。そして早くお休みになつたら」
「馬鹿! 貴樣はまた酒のせゐだと思つてるんだね。……あゝ、どうかして十日も二十日も降り續いて、郵便も電報も一切止まつて呉れないかな。さうなると當分は誰からの怖い手紙も見ずに濟むつて譯だからね」
彼は悄氣切つた調子になつて、云つた。そして呼吸苦しさから、輕い痙攣を感じ出したらしい手附きして、機械的に盃を唇に運んでゐた。そしてまた發作前の常習慣の、何も彼も腹立たしい、苛ら/\した、神經的の衝動を鎭制しようと云ふ風に、凝と燃える火に見入つてゐた。
「併し、今となつては、お金を返せない以上は、それは何と云はれたつて仕方のないことですからね。……それをまた一…