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日曜日之説
にちようびのせつ |
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作品ID | 50733 |
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著者 | 柏原 孝章 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「明六雑誌(下)〔全3冊〕」 岩波文庫、岩波書店 2009(平成21)年8月18日 |
初出 | 「明六雜誌 第三十三號」明六社、1875(明治8)年4月6日 |
入力者 | 田中哲郎 |
校正者 | 岡村和彦 |
公開 / 更新 | 2020-04-09 / 2021-08-29 |
長さの目安 | 約 2 ページ(500字/頁で計算) |
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維新の後、一異様の日を出現し来れり。その名称いまだ一定せず、曇濁といい、損徳といい、また呑泥という。みな西音の転訛にして、日曜日の義なり。それ日曜は七曜の一にして、毎週の首なり。これをもって毎歳必ず五十日あり。この日や、縉紳先生より開化処士、青年書生に至るまで、柳を訪い、花を尋るの期となせり。ゆえに妓楼、酒店にありては、古のいわゆる門日、物日に比す。
按ずるに、耶蘇教の人は古来この日をもって教祖蘇生の日となせり。しかれども、元ヘーデン宗の人大陽を神なりとして、これを祭祀するの日となせしをもって名称の起るところとす。猶太宗の人もまたこの日をもって礼拝日となせり。古え希臘の一帝あり、この日をもって神を祭るべきを公布せしより、ついに世間普通の祭日となるに至れり。晩近に及て、これを非する説ますます盛なりという。これによりてこれを見れば、奉教の人この日にあたり、安息して独を慎み天を敬するがごときは、もとより可なり。しかれども、いまだこの日をもって、放肆遊蕩すべきを聞かず。しかるに邦人語意を誤解し、はなはだしきに至ては、嫖蕩放肆の義となす者また尠なからず。
余一日、家童、門生の業を抛ち学を廃するを見、その故を問う。皆云う、今日日曜日なり、これをもってかくのごとしと。余おもえらく、わが邦の人、学術・品行ともに西人に後るる、あにただ数里の外のみならんや。いま人をして日夜馳駆せしむるも、なお数十年の後にあらずんば、その地位に達せず。しかるをいわんや、毎週必ず一日の光陰を消耗するにおいてをや。けだし縉紳先生は功成り名遂るの人なり。開化処士もまた自ら見るところあるべし。青年書生のごときは、成業を将来に期すべき者なり。いずくんぞ放肆、自棄、かの両者の顰に倣うべけんや。日曜の数一歳すべて五十日、積て十年に及べば五百日あり、二十年にして千日あり、三十年にして千五百日あり、すなわち四歳有一月の光陰なり。いやしくもこの光陰をもって、これを勉強に施さば、中人といえどもまた必ず一事業を成すに足んか。余ここに感ずることありて、日曜日の説を作る。