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死線を越えて
しせんをこえて
作品ID50749
副題02 太陽を射るもの
02 たいようをいるもの
著者賀川 豊彦
文字遣い新字旧仮名
底本 「死線を越えて(三部作全一巻)」 キリスト新聞社
1975(昭和50)年7月30日
初出「死線を越えて 中巻 太陽を射るもの」改造社、1921(大正10)年11月28日初版発行
入力者富田晶子
校正者雪森
公開 / 更新2023-04-23 / 2023-04-21
長さの目安約 440 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 検事審問室は静かであつた。
 その室は白壁を塗つた、無風流なものであつたが、栄一はそれをあまり気にもしなかつた。彼は一時間以上そこで待たされた。生憎、書物も何にも持たずに来たものだから、その間彼は冥想と祈りに費した。
 東向の窓は大きな硝子張のものであるが、日あたりの悪い故か、何となしに陰気であつた。窓の向うに赤煉瓦三階立の検事詰所が見える。
 何人かの検事や書記が繁く出入をして居る。そこには、人を罰することを専門にして居る検事が毎日詰めて居るのだと思ふと淋しい感じがする。
 呼び出しの小使が一寸覗いて通る。栄一は天井の煤けた斑点や、蜘蛛の巣のかゝつた四隅、窓硝子の屈曲して居る為めに、外側にある樹木が伸縮して見える工合、机の上の墨やインキで染め出された色々な模様を次から次へ見て居た。
 凡てが静かである。
 時々、もし治安警察法にでも触れて居たなら、どうなるであらうと云ふ不安な念も湧いて来るが、栄一はすぐそれを打消した。
 彼の胸中には正義の外何物も恐れるものは無かつた。
『汝、審判者の前に立ちて、何事を云はんと思ひ患ふ勿れ、その時聖霊汝に示すべし』
 彼は聖書の中にこんな文句のあることを思ひ出して、別に恐れなかつた。
 彼は英国のお伽噺『アリス・イン・ザ・ウオンダー・ランド』に出てくる、トランプ・カルタの女王がお台所にあつたお饅頭を一つ、少女アリスが盗んだと云つて、法廷に引き出し、大審判を開いた話を思ひ出し乍ら、くすくすひとりで苦笑した。
 そこへ、検事が出て来た。
 栄一は敬意を示して、起立した。
 検事は栄一を椅子に坐らせて『波瀾録』と上に書いたノート・ブツクを机の上に置いて栄一と正反対に坐つた。
『君は新見栄一と云ふのか?』
『ハイ』
『何を職業にして居るのか?』
『キリスト教の伝道を致して居ります』
『学校はどこまで行つたのか?』
『中学校を卒業して四五年あちらこちらの学校で勉強して居りました。』
『君には両親があるか?』
『いゝえ、ありません』
『君は年齢は幾つぢや?』
『二十三歳で御座ります』
 検事は頬の筋肉をちつとも緩めないで、怒つたやうな面付をして聞く。栄一は気の毒な職業だと思つた。もう少し人間味があつても善ささうなものだと思ふ。
『現住所は何処だ?』
『神戸市北本町六丁目二二〇で御座ります』
『そこには何年前から住んで居るのか?』
『足懸け三年住んで居ります』
『そこで、君は何をして居るのぢや』
 寒い空気が足に沁みるやうに感じる。検事は火鉢に手をあぶり乍ら、栄一の顔を凝視して居る。栄一も検事の顔を見詰める。
『困つた者を助けて居るのです』
『君が、社会主義の宣伝をやつて居ると云ふ評判があるが、それはほんとうか?』
『……………………』
『君は「勝」と云ふ男とはどんな関係があるのか?』
『勝と云ふのは山内勝之助のことですか、私の…

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