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死線を越えて
しせんをこえて
作品ID50750
副題01 死線を越えて
01 しせんをこえて
著者賀川 豊彦
文字遣い新字旧仮名
底本 「死線を越えて(三部作全一巻)」 キリスト新聞社
1975(昭和50)年7月30日
初出「改造 第二巻第一号〜第二巻第五号」改造社、1920(大正9)年1月〜5月
入力者Nana ohbe
校正者富田晶子
公開 / 更新2022-07-10 / 2022-07-16
長さの目安約 546 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 私は、不思議な運命の子として、神聖な世界へ目醒めることを許された。そして、人間の世界の神聖な姿と、自然の姿に隠れた神聖な実在を刻々に味ふことが、私の生活の凡てになつてしまつた。二十二の時に、貧民窟に引摺られたのも、この神聖な姿が、私をそこへひこずつて行つたのだつた。そして、私の芸術も、この美を越えた聖、生命の中核をなす聖なるものを除いて何ものでもない。



 東京芝白金の近郊に谷峡が三つ寄つた所がある。そこは、あちらもこちらも滴る許りの緑翠で飾られて居るので唯谷間の湿つぽい去年の稲の株がまだ覆されて居ない田圃だけに緑がない。
 大崎の方に寄つた谷の奥には大きな雲の上に出る様な大杉が幾十本となしに生えて居る。そこは池田侯爵の屋敷である。白金の岡にはお寺が一軒二軒、中の岡には屋敷も無ければ寺もない。細い栗、楢、櫟が三十本六十本と生えて居る。
 五月の初めであつた。ある日本晴れの日に此のまん中の岡の森蔭に、草を敷いて横になつて、本を読んで居た者があつた。
 見ると、脊は普通より高い、痩形で、黒羅紗のチヤンとした正服を着て居る。
 慥かMGを組合せた金ボタンをつけ、顔色は非常に青く、鼻は高いが、頬骨が少し出てゐる。目はどちらかと云ふと、大きくて鋭い。然し気高い輪廓の持主であつた。
 此男はいつも此処に来る男だが、近頃は此処へ来て本を開いても別に読まうともして居らぬ。
 たゞ目を閉じて黙想をして居る。然し之もあまり長くは続かぬ。すぐ眠つて終つて居る。が夢が醒めるとまた急いで本をかき開いて読む。三四行の処を繰返し繰返し読んで居て、此度は急いで畔道を伝つて白金の方に飛んで帰る。
 今日も彼は例の如く此処へ遣つて来て、例の如くやつて居た。
 その時彼のねて居る頭のうへの細道からだんだら降りに降りて来る一人の廿前後の青年があつた。小薩張りとした絣の衣服に真岡木綿の黒の兵古帯をしめ、鳥打帽を冠つてステツキをついて居た。
 彼は脊は高くないが骨格の逞しい眉の濃い髯の多い、赤い顔した男だつた。
 彼は散歩の帰り路である。
 不図洋服を着た男が横になつて本を読んで居るのを見たから、急に立ち止つて声を掛けた。
『新見なんしてるか? よせ、よせ!』
『ア、鈴木か、何処へ行つて居たんだ?』と本を読んで居た男は叫んだ。
『僕か僕は目黒の不動さんの方へ行つて居たんだ。君、此春色駘然たる時に古臭い本なんか読むな、僕は君が恁那処でぐずぐずして居るのを知つて居たら、目黒の方へ連れて行つて遣るんだつた。新見また今日も煩悶か?』
『馬鹿!』
『何だその本は? 哲学か? よせ、よせ』と彼は歩を運んで新見の傍に腰を降して、彼が小笹の上に捨てた洋書を取り上げた。
『何だ之りや? Upaniashed と発音するのか? ウム。The sacred books of the East つて何だ一体?』
『こ…

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