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コロポックル説の誤謬を論ず(上)
コロポックルせつのごびゅうをろんず(じょう)
著者
文字遣い旧字旧仮名
底本 「歴史地理 第十二卷第五號」 日本歴史地理學會
1908(明治41)11月1日
初出「歴史地理 第十二卷第五號」日本歴史地理學會、1908(明治41)年11月1日
入力者しだひろし
校正者フクポー
公開 / 更新2018-09-03 / 2018-09-03
長さの目安約 13 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

一 アイヌに三派あり

本邦人類學上の一大疑問たるコロポックルは、アイヌの口碑に出でたるものなるか、アイヌには蝦夷本島アイヌ、樺太アイヌ、北千島アイヌの三派ありて、此三派はコロポックルに就き語る所一樣ならざるのみならず、其他種々の點に於て本題に少なからざる關係あるを以て、先づ此三派に就きて略述するの必要あり。
本島アイヌは、現今北海道本島及び南千島なる國後、擇捉の二島に住居するものにして、和人に接し其の感化を受けたること、他のアイヌに比すれば最も早きものとす、其の人口は文化の頃二萬四千餘ありしも、漸次減じて今は一萬七千二百餘に過ぎず、樺太アイヌは樺太南部に住居するものにして、南は本島アイヌ、北はギリヤーク、オロチョン及び山靼人等と交通し、寛政以後直接和人の支配を受け、明治八年領土交換の後は露國の管轄に歸し、日露戰役の後本邦に復歸したるものとす、其人口は文化の頃約二千八百餘ありしも、今は半減して一千四百餘となれり、此アイヌの内八百四十餘名は、明治八年宗谷に移り、翌九年石狩國に移住せしが、其後病死するもの夥しく、又た私に樺太に渡航せるものありて、現今石狩地方に殘るもの僅に數十名に過ぎず、北千島アイヌは千島列島中得撫以北に住居せしものにして、南は本島アイヌ、北はカムチャダールと交通せしも、甚だ不便の地にあるを以て、他の感化を受くること最も遲かりしものゝ如く、露人の始めて其地に至りしは正徳年間にして、其後露人の支配を受け、明治八年領土交換の後本邦の民となり、明治十七年南千島なる色丹島に移住せり、其人口は延享四年占守幌莚島に(他島の分は詳かならす)二百五十三名ありしが、今は減じて六十七名となれり。
以上三派のアイヌ間には體格、口碑、風俗等に多少の差異ありと雖も、其同種族たるは一般に認めらるゝ所にして、之に異論を唱ふるは學者中坪井博士一人のみと云ふも可なり、坪井博士は樺太アイヌに對しては、「樺太アイヌと本島アイヌとは、全く同種と思はれず、夫れ故一方の事實を他の事實に當て嵌めることは出來ない」と斷言し、後には樺太アイヌの名を忌みて樺太土人の稱を用ひられしが、昨四十年樺太巡回の後は、自ら其非を曉られたるものゝ如し、北千島アイヌに對しては、博士は最初より之を度外に置き、北千島土人と云ひて北千島アイヌと云はず、全く之を別人種と見做されたり、然れども今日斯くの如き謬見を有するは、學者中唯坪井博士一人のみなれば、今之を駁論すべき價値を有せず、要するに此三派のアイヌは同種族にして、古昔分離し其後種々の事情により、體格風俗等に多少の差異を生じたるものと謂ふべきのみ。

二 コロポックルに關する諸説

本島アイヌに一の奇怪なる傳説あり、其大要を言はんに、古昔此地に體躯矮小なる人種(稀に人に非ずと云ふ者あり)あり、コロポックル又トイチセクルと云ふ、其他トンチンクル、トイチセコッコロカムイ等…

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