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『さびし』の伝統
『さびし』のでんとう |
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作品ID | 5076 |
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著者 | 斎藤 茂吉 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「日本の名随筆63 万葉(三)」 作品社 1988(昭和63)年1月25日 |
入力者 | 門田裕志 |
校正者 | 仙酔ゑびす |
公開 / 更新 | 2010-07-13 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 18 ページ(500字/頁で計算) |
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一
短歌には形式上の約束があるために、新らしい言葉がなかなか入り難い。入れようとすると無理が出来て、その企の放棄せられることは、常に実作者のあひだに行はれてゐる事柄である。若しこれが約束に対して放肆になれば破調の歌となり自由律の歌になつてしまふのであるが、自由律を唱へる人々と雖、ときどき定型のやうなものを作つて見て、故郷を偲ぶごとき面持をしてゐる。
さういふ風であるから、短歌でその観照なり表現なりが伝統的になり易いのは、先づ理論よりも実際が示してゐるのである。万事が新機軸を出し変化を試みてゐるあひだに立つて、歌では、いまだに、『あしひきの』とか、『たまきはる』とか、『ひさかたの』とかいふ枕詞まで使つて歌を作つてゐる。
さういふことは時代に逆行するものだとして、伝統破壊を試みた人々は既に幾たりもゐた。明治新派和歌のうちで、与謝野氏等は、一時、『らむ』とか『けり』とかを使はぬことにして一首を纏めようと意図し、議論でもさう云ひ、また実行もしたものである。然るに、追々二たび元に帰つて、やはり、『らむ』とか『けり』とかを用ゐるやうになつた。歌の形式上の約束は、おのづからさういふ伝統を強ひるところがある。
そんならば、言語表現の伝統は常に変らないかといふに、常に少しづつ変つて来てゐる。これは文学芸術に伝統主義を唱へる人でも認めて居ることであるが、歌に於てもその例に漏れない。
このことを歌に拠つて証明し得るのであるけれども、今差当り、『さびし』といふ一語を借りて、その伝統の趣、その変化の趣を少しく記載することとする。
題しらず
寂しさに堪へたる人のまたもあれな庵を並べむ冬の山里 (西行法師)
山家
寂しさに堪へてすむ身の山里は年ふるままに訪ふ人もなし (頓阿法師)
山家郭公
寂しさに堪へて住めとや問ひすてて都に向ふ山ほととぎす (加藤枝直)
信州数日
寂しさの極みに堪へて天地に寄する命をつくづくと思ふ (伊藤左千夫)
斯く類似の、『寂しさに堪ふ』といふのがあるから、この事についてその伝統の経過を少しく記載することとする。
二
万葉集ではサビシといはずに大部分サブシといつてゐた。佐夫思。佐夫之。左夫之。佐夫斯。佐夫志といふ仮名書きのあるのによつても分かる。また、『不怜』の文字は旧訓にサビシと訓ませたが、真淵の万葉考でサブシが好からうといふ説を出し、諸家それに従ふやうになつてゐる。
それなら、万葉集にサビシと訓ませたところは一つもないかといふに、ただ一つある。巻十五(三七三四)に、『遠き山関も越え来ぬ今更に逢ふべきよしの無きが佐夫之佐』といふ歌があつて、結句にサブシサの語があるが、この結句は、『一云。佐必之佐』とあるから、これはサビシサと訓ませてゐる例である。この例があるために、サブシからサビシが転じたのであらうといふ説も可能となるわ…