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忘れ難きことども
わすれがたきことども
作品ID50761
著者松井 須磨子
文字遣い新字旧仮名
底本 「「弔辞」集成 鎮魂の賦」 青銅社
1986(昭和61)年10月15日
初出「演芸画報」1918(大正7)年12月
入力者鈴木厚司
校正者染川隆俊
公開 / 更新2010-04-30 / 2014-09-21
長さの目安約 3 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 先生のことを思ひますと、唯私は悲しくなります。先生は、随分苦労をなさいました。ほつと呼吸をつく間もない位に、殆んど苦労のし通しでした。それを残らず傍にゐて見知つてゐるだけに、皆私には忘れられないことばかりです。
 先生は、ずつと以前から、私達一座を率ゐて西洋へ行つて見たいと云ふお考へを持つてゐらつしやいました。はなは、大連から露西亜へ、露西亜から亜米利加の方へ行つて見たいと云つてゐらつしやいました。ところで、今年は其の大連から浦潮の方まで行つて見ましたから、今度はのつけに亜米利加へ行つて、ずつと向うを巡廻して見たいと云つてゐらつしやいました。そして、一と廻り興行をしたら、あとに私達二人だけ残つて、私には向うの俳優学校へ入つて、二三年勉強したら好いだらうと云つてゐらつしやいましたが、それも悲しい、思ひ出になつてしまひました。此の頃先生は、西洋へ持つていらつしやる脚本を拵へる為に、種々材料を集めてゐらつしやいましたが、それも皆悲しい遺品になつてしまひました。
 先生のお亡くなりになつたのは、五日の午前二時近くだつたと云ひますが、私は、そんなことはちつとも知らずに、其の時分は明治座で一心に舞台稽古をしてゐたのです。今其の事を考へますと、何とも云ひやうのない、情けない悲しい思ひがいたします。
 私は家を出たのは、四日の正午頃でした。其の時分は、先生は特別に苦しい様子もありませんでした。ですから私は、無論それが最後にならうなどと云ふことは更に思ひ掛けませんでした。先生は其の時、「しつかり稽古をしてきてくれ」と云ふ意味のことをおつしやつて、私を励ましてくださいましたが、それが生涯忘れられない最後になつてしまひました。
 明治座の舞台稽古は、衣裳や鬘の都合で、甚く遅くなつたのです。私は其の間、早く稽古を済して、帰りたいと思つてゐました。それで漸く稽古が済んだのは、もう五日の午前二時頃でした。私は稽古を終へて、衣裳や鬘を脱いでゐると、其処へ、先生がお悪いから、早く帰つてくださいと云つて知らしてきましたから、私は取るものも取りあへず、夢中に楽屋口に待つてゐた俥に乗つかつて帰つてきたのです。ですが其の時も、先生がお亡くなりになつたと云ふことは少しも知りませんでした。私は、唯先生が寂しく私の帰りを待つてゐらつしやるだらうと思つて、帰る途中も気が気でありませんでした。唯私は、其の間も物悲しくなつて、泣いてばかりゐました。其の中に、俥が家の門前へきて止りました。すると私は、一時に胸が込みあげてきて、声をあげて泣きました。ですが、泣いてなんぞ入つて行つては、反つて先生のお気を悪くしてはならないと思ひましたから、私は階段のところで声を呑み、流れる涙を押拭つて、二階へ上つて先生のやすんでゐらつしやる部屋へ行きましたが、もう駄目でした。其の時の気持と云つたらありませんでした。丁度後方から、…

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