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霧の夜に
きりのよるに
作品ID508
著者南部 修太郎
文字遣い旧字旧仮名
底本 「若き入獄者の手記」 文興院
1924(大正13)年3月5日
入力者小林徹
校正者柳沢成雄
公開 / 更新2000-02-19 / 2014-09-17
長さの目安約 12 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 霧の深い、暖かな晩だつた。誘はれるやうに家を出たKと私は、乳色に柔かくぼかされた夜の街を何處ともなく彷徨ひ歩いた。大氣はしつとりと沈んでゐた。そして、その重みのある肌觸りが私の神經を異樣に昂ぶらせた。私の歩調はともすれば早み勝ちだつた。――私達はK自身の羸ち得た或る幸福に就いて、絶えず語り續けた。それは二人の心持を一そう興奮させた。そして、夜の更けるのも忘れてゐた。
「咽喉が渇いたね……」さう云つて、私達は或る裏通のカフエエにはいつた。丁度十一時を少し過ぎてゐた。
 それは全く初めての、見知らぬカフエエだつた。中は明りや飾りのけばけばしい割に、がらんとしてゐた。Kと私と、私達から二三卓を離れた暖爐の前の卓を圍む三人――その一人は外國人だつた――と、帳場の前に固つた四人の給仕女達と、それが廣い室内の人影で、如何にも冬の夜更けらしい寂しさを感じさせた。
「ほんとに咽喉が渇いた。紅茶にしよう……」と云つて、私達は熱い紅茶を啜つた。
 暖爐の前の男の一人はもう可成り醉つてゐた。
「ねえ君、己のロシヤ語なんざあ怪しいもんさ。あつはつはあ……」と、彼は肥つた體を搖す振つて豪傑笑ひをしながら、連れの男を振り返つた。「何しろ、チタの監獄で聞き覺えたきりなんだ。それももう十五六年前と來ちやあ、忘れるのも無理はないよ……」彼は割れるやうなだみ聲で得意らしくかう云つて、ウ井スキイのグラスを取り上げた。
「處で、ガスボデイン。燐寸のことはスピイチカつと……。今度は君の名が聞きたいんだ。と云つたつて分らねえしな。名前、名前、何てつたつけな。畜生奴つ……」彼は醉ひにたるんだ眼を傍の外國人へ眞面に向け掛けて、じれつたさうに云つた。
「………………」その饒舌な醉ひどれ男の日本語を當惑氣な笑顏で聞き入つてゐた外國人は、幽かな聲で何かを呟いた。彼は如何にも人の好きさうな老人だつた。頭髮は既に雪白に變つて、禿げ上つた額の皺の五六條と、その額の下に隱れてゐる、優しい、細い眼の光が、上品な、そして、何となく懷しい人柄に感じさせた。が、その表情、その物ごしには何處かに物寂しい影が差してゐるやうに思はれるのであつた。
「ガスボデイン。名前だよ。君のネエムだよ……」と、醉ひどれ男は熟柿のやうな顏を振り立てながら、ひつつこく話し掛けた。が、老人はその顏を見詰めて、詞もなく微笑するばかりだつた。
「ちえつ、分らねえんだな……」と、男は卑しい身振を示して、舌打ちした。
「何だか、ロシヤ人らしいぢやないか……」と、私はKを顧みて囁いた。
「さうらしいね……」と、Kも頷いた。
「君、君。どうしたんだい、あの西洋人は?」と、やがてKは果物を運んで來た給仕女に、小聲に訊ねた。
「あの人、ロシヤ人なのよ。もう二三度入らしたけど、英語も日本語もまるつきりお分りにならないんでせう。御註文の時ずゐ分困るわ……」給仕女は輕く眉…

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