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罪人
ざいにん
作品ID50919
著者アルチバシェッフ ミハイル・ペトローヴィチ
翻訳者森 鴎外
文字遣い新字新仮名
底本 「於母影 冬の王 森鴎外全集12」 ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年3月21日
入力者門田裕志
校正者米田
公開 / 更新2010-08-29 / 2014-09-21
長さの目安約 16 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 ずっと早く、まだ外が薄明るくもならないうちに、内じゅうが起きて明りを附けた。窓の外は、まだ青い夜の霧が立ち籠めている。その霧に、そろそろ近くなって来る朝の灰色の光が雑って来る。寒い。体じゅうが微かに顫える。目がいらいらする。無理に早く起された人の常として、ひどい不幸を抱いているような感じがする。
 食堂では珈琲を煮ている。トンミイ、フレンチ君が、糊の附いた襟が指に障るので顫えながら、嵌まりにくいシャツの扣鈕を嵌めていると、あっちの方から、鈍い心配気な人声と、ちゃらちゃらという食器の触れ合う音とが聞える。
「あなた、珈琲が出来ました。もう五時です。」こう云うのはフレンチの奥さんである。若い女の声がなんだか異様に聞えるのである。
 フレンチは水落を圧されるような心持がする。それで息遣がせつなくなって、神経が刺戟せられる。
「うん。すぐだ。」不機嫌な返事をして、神経の興奮を隠そうとしている。さて黒の上衣を着る。髯を綺麗に剃った顋の所の人と違っている顔が殊更に引き立って見える。食堂へ出て来る。
 奥さんは遠慮らしく夫の顔を一寸見て、すぐに横を向いて、珈琲の支度が忙しいというような振をする。フレンチが一昨日も昨日も感じていて、友達にも話し、妻にも話した、死刑の立会をするという、自慢の得意の情がまた萌す。なんだかこう、神聖なる刑罰其物のような、ある特殊の物、強大なる物、儼乎として動かざる物が、実際に我身の内に宿ってでもいるような心持がする。無論ある程度まで自分を英雄だと感じているのである。奥さんのような、かよわい女のためには、こんな態度の人に対するのは、随分迷惑な恐ろしいわけである。しかしフレンチの方では、神聖なる義務を果すという自覚を持っているのだから、奥さんがどんなに感じようが、そんな事に構まってはいられない。
 ところが不思議な事には、こういう動かすべからざる自覚を持っているくせに、絶えず体じゅうが細かく、不愉快に顫えている。どんなにして已めようと思っても、それが已まない。
 いつもと変らないように珈琲を飲もうと思って努力している。その珈琲はちっとも味がない。その間奥さんは根気好く黙って、横を向いている。美しい、若々しい顔が蒼ざめて、健康をでも害しているかというように見える。
「もう時間だ。」フレンチは時計を出して一目見て、身を起した。
 出口のところで、フレンチが靴の上に被せるものを捜しているときになって、奥さんはやっと臆病げに口を開いた。
「あなた御病気におなりなさりはしますまいね。」
 フレンチは怒が心頭より発した。非常なる侮辱をでも妻に加えられたように。
「なんだってそんな事を言うのだ。そんな事を己に言って、それがなんになるものか。」肩を聳やかし、眉を高く額へ吊るし上げて、こう返事をした。
「だって嫌なお役目ですからね。事によったら御気分でもお悪くおなり…

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