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医師と旅行鞄の話
いしとりょこうかばんのはなし
作品ID51162
著者スティーブンソン ロバート・ルイス
翻訳者佐藤 緑葉
文字遣い旧字旧仮名
底本 「新アラビヤ夜話」 岩波文庫、岩波書店
1934(昭和9)年6月30日
入力者門田裕志
校正者仙酔ゑびす
公開 / 更新2011-01-02 / 2014-09-21
長さの目安約 51 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 サイラス・キュー・スカダモーア氏は、單純な、惡氣のない、若い亞米利加人だつた。この男の生れた新英蘭は、同じ新世界のうちでも、特にさういふ性質が缺けてゐると言はれてゐる地方なので、その點が一層彼の信用を増すもととなつてゐた。この男は非常な金持だつたが、自分の小遣と云へば、いつも克明に小さな紙製の手帳につけてゐた。そして羅甸區の所謂家具附ホテルの七階から、巴里の人氣場所などをあれかこれかと調べて樂しみにしてゐた。彼の吝嗇は大方習慣から來てゐた。そして仲間の間で特に有名になつてゐるこの男の長所は、主として遠慮深いといふ事と、年がまだ若いといふことであつた。
 彼の部屋の隣りには一人の婦人が住んでゐた。この婦人の態度にはひどく人を惹きつけるところがあつて、またその身だしなみは極めて上品だつたので、彼が初めてこゝに來た時には、これは伯爵夫人に相違ないと思つた程だつた。だがそのうちに、この婦人がその名をゼフィリーン夫人と呼ばれてゐる事や、この世の中にどんな身分を占めてゐるのか知らないが、肩書などのある人ではないといふことが解つて來た。ゼフィリーン夫人は、大方この若い亞米利加人を迷はせて見たいとでも思つてか、階段で出會つた折などは、丁寧に腰を屈めたり、勿論言葉をかけたり、その黒い眼で相手を惱殺するやうに眺めたりして、これ見よがしに男のそばを通つて、それから衣ずれの音をさら/\ときかせて、見事な脚と足首とを見せて、やがてその姿を消すのが常であつた。だがこんな誘ひの手も、スカダモーア氏の心をそゝり立てるどころか、却つてその勇氣を沮喪させて、益[#挿絵]しり込みをさせるばかりであつた。彼女はあかりをつけさせて貰ひたいとか、自分の尨犬が盜まれたやうな氣がしたのは空想に過ぎなかつたのだ、などゝいひわけなどをして、度々彼の部屋にやつて來た。だがかういふ素晴らしい人の面前では彼の口は閉されて、佛蘭西語も急に出なくなつて、たゞ相手をぢつと見つめて、部屋から立ち去るまでぶす/\吃るだけの事であつた。二人の交際はこんな心細いものだつたが、サイラスは男ばかりの友達の中で、何の心配もいらぬと思ふ時などには、この光榮至極に感ぜらるゝ話を仄めかさない事もないではなかつた。
 この亞米利加人の部屋の反對側の部屋には――といふのは、このホテルには一階に室が三つ宛しかなかつたが――どちらかといふと評判の香ばしくない、年をとつた英吉利人の醫師が住んでゐた。ノーエル博士といふのがその人の名前だが、倫敦で開業してゐて、仕事もだん/\繁昌して來たのに、餘儀なくそこを立ちのかねばならぬ事になつたのであつた。そしてこのやうに住所を更へねばならなくなつたのは、警察から促がされての事だといふ噂であつた。かうしてたうとう、若い頃にはその道で相當名を現はしたのに、今では羅甸區で全く單純孤獨な生活をつゞけて、專ら研究にその朝…

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