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青春回顧
せいしゅんかいこ |
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作品ID | 51240 |
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著者 | 吉井 勇 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「日本の名随筆 別巻3 珈琲」 作品社 1991(平成3)年5月25日 |
入力者 | 門田裕志 |
校正者 | noriko saito |
公開 / 更新 | 2011-01-03 / 2016-01-19 |
長さの目安 | 約 9 ページ(500字/頁で計算) |
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銀座裏日吉町の民友社の傍、日勝亭と云ふ撞球屋の隣りにカフエ・プランタンが出来たのは、たしか明治四十三四年頃のことだつたと思ふが、その時分この銀座界隈には、まだカフエと云ふものが一軒もなく、それらしいものとしては、台湾喫茶店とパウリスタとがあるだけだつた。主人が洋画家の松山省三君だつたし、プランタンと云ふ命名者が小山内薫氏だつたので、客は多く文士、画家、俳優、その他新聞雑誌関係の人か、或ひはさう云つた方面に趣味を持つた人達ばかりで、まださう云つたカフエなどと云ふものが珍らしい時代だつたので、築地木挽町あたりからの帰りがけに、夜更けてから芸者連れで来るやうな客も少くはなかつた。
このプランタンの客種が、今云つたやうな人達が主となつてゐたので、ここで会つた文壇関係の人々もかなり多かつたが、その中でも最も私に深い印象を残してゐるのは、中沢臨川、押川春浪の両氏である。中沢氏とは小山内氏の紹介で、たしかここで会つたのが最初だと思ふが、直ぐに杯盤狼藉の中で相見るやうな仲になつてしまつて、ずゐぶん一緒に各方面へ、酒修業に伴れて往かれたものであつた。臨川と云ふ名前は、以前から武林無想庵、川田順、小山内薫などの諸氏と一緒にやつてゐた「七人」と云ふ雑誌の上で知つてゐたし、その発行所から出た「鬢華集」と云ふ文集は、私の最愛読した書物であつて、渇仰久しきものがあつたから、中沢氏にかうして伴れて歩かれることは、私にはまるで夢のやうな気がされて、唯もう嬉しくつて堪らなかつた。
中沢氏には芸者達までが「神様」と云ふあだ名を附けて、崇敬の念を以て遇してゐたらしいが、この「神様」は酒は好きだが強い方でなく、三四本飲むともう忽ちに酔態淋漓、杯の酒は殆んどみんな澪してしまひ、誰彼の差別なく、そこらにゐるものをつかまへては、「馬鹿野郎。貴公は馬鹿だぞ」などと云つて痛罵を始める。が、そのうち崩れるやうに横倒しになると、大広間の真ん中であらうが何処であらうが関はずに、そのままぐつすりと寝込んでしまふ。兎に角中沢氏の友達の中で、「馬鹿野郎」と云はれなかつたものは、一人もいなかつたと云つてもいい位であらう。私などはこの好意ある「馬鹿野郎」と云ふ言葉を、幾度浴せ懸けられたか知れない。
中沢氏と最後に会つたのは、たしか私が越後の妙高山の中腹にある、赤倉温泉に滞在してゐた時のことだつたと思ふ。私はわざわざ信州の松本から訪ねて来た中沢氏と、一晩山上で痛飲した揚句、これから新潟へ往かうと云ふことになつて山を下り、そこでも鍋茶屋その他を飲み廻つてから、更にその当時宝田石油に勤めてゐた、みんなが越後南州と称してゐた大村一蔵君を長岡に訪ね、その翌日二人は篠の井の駅で別れたのだつたが、それが遂に私と中沢氏との永遠のわかれになつてしまつたのだつた。
押川春浪君と知り合つたのは、私がまだ中学の一年か二年の時分のことで、…