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かき
かき
作品ID51292
原題УСТРИЦЫ
著者チェーホフ アントン
翻訳者神西 清
文字遣い新字新仮名
底本 「カシタンカ・ねむい 他七篇」 岩波文庫、岩波書店
2008(平成20)年5月16日
入力者米田
校正者小林繁雄
公開 / 更新2010-06-24 / 2014-09-21
長さの目安約 9 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 小雨もよいの、ある秋の夕暮れだった。(ぼくは、あのときのことをはっきりおぼえている。)
 ぼくは、父につれられて、人の行き来のはげしい、モスクワの、とある大通りにたたずんでいるうちに、なんだかだんだん妙に、気分がわるくなってきた。べつにどこも痛まないくせに、へんに足ががくがくして、言葉がのどもとにつかえ、頭がぐったり横にかたむく。……このぶんだと、今にもぶったおれて、気をうしなってしまいそうなのだ。
 このまま入院さわぎにでもなったとしたら、きっと病院の先生たちは、ぼくのかけ札に、≪腹ぺこ≫という病気の名を書き入れたにちがいない。――もっともこれは、お医者さんの教科書にはのっていない病気なのだけれど。
 歩道の上には、ぼくと並んで父が立っている。父は着古した夏外套をはおって、白っぽい綿がはみだした毛の帽子をかぶっている。足には、だぶだぶな重いオーバーシューズをはいている。父は、もともと、見えぼうな性分だから、素足の上にじかにオーバーシューズをはいているのをよその人に見られるのが気になるらしく、古い皮きゃはんをすねの上までぐっと引っぱりあげた。
 ぼくは、父のしゃれた夏外套がぼろぼろになって、よごれればよごれるほど、よけい父が好きになる。かわいそうな父は、今からちょうど五ヵ月まえ、都へ出てきて書記の口をさがしていた。それからのまる五ヵ月、父は市内をてくてく歩いて、仕事をたのんでまわった。そしてきょう――いよいよ、往来に立って人さまにものごいをする決心をしたのだ。
 ぼくたちふたりが立っているま向かいに、≪飲食店≫という青い看板をかけた三階建ての家がある。ぼくは、頭がぐったりうしろ横へそりかえっているものだから、いやでもおうでも、その飲食店のあかあかと明かりのともった窓々を見あげないわけにはいかない。その窓々にはおおぜいの人影がちらちらしている。オルガンの右がわも見える。油絵が二まい、それから、つりランプもたくさん見える。
 窓の一つをじっと見つめているうちに、ぼくは、ふとなにやら白っぽい斑点に気がつく。そのしみは、ちっとも動かずいちめんに暗い茶色をした背景の上に、四角い輪廓をくっきり浮きたたせている。ぼくは目をこらして、じっと見つめる。すると、そのしみが壁の白いはり紙だとわかってくる。はり紙には、何か書いてあるが、何が書いてあるのか見えない。……
 半時間ほど、ぼくはそのはり紙とにらめっこをする。その白さに、ぼくの目はすいつけられ、ぼくの脳みそは催眠術にかかったようになる。ぼくは読もうとりきむが、いくらりきんでもだめだ。
 とうとうえたいの知れない病気が、わがもの顔にあばれ始める。
 馬車の音が、かみなりの音のように思われてくる。往来にただよう、むっとするにおいの中に、ぼくはいく百いく千のちがったにおいをかぎわける。ぼくの目には、飲食店のランプや街灯の光が、…

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