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桜もち
さくらもち
著者伊庭 心猿
文字遣い旧字旧仮名
底本 「繪入墨東今昔 心猿第二隨筆集」 葛飾俳話会
1957(昭和32)年2月4日
入力者H.YAM
校正者きりんの手紙
公開 / 更新2020-02-25 / 2020-01-24
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 一友に誘はれて久しぶりに向島を散歩したのは、まだ花には少しはやい三月なかばのことであつた。震災と戰災で昔の面影をきれいに失つたが、それでもわれわれ明治の子にとつて、墨東は忘れがたい地である。あの道この横丁には、まだまだ幼時の記憶をよびさますものが少くない。

 枕橋畔の料亭八百善、牛島神社の舊社地、弘福寺裏の富田木歩の家、淡島寒月の梵雲庵、饗庭篁村の家、幸田露伴の蝸牛庵、百花園の御成屋敷。 それらは地上から永遠に消え去つたが、竹屋の渡しのあたりの常夜燈や夥しい社寺の碑碣など、いまだにもとの場所に殘存してゐる。苞に入つた入金の業平蜆はとうになくなつたが、まだ言問團子や、長命寺の櫻もち、地藏坂の草だんごは、それぞれ名代の看板を掲げてゐる。姿かたちは變つても、それらの文字を眼にすれば自づと、大正初期の墨堤を瞼に描くこともできるのである。
 私の向島の思ひ出は、長命寺内芭蕉堂の懷石料理にはじまる。その日、小學一年生の私は父に伴はれて茶事に列したのである。もちろん招かれざる客であつた。會者七八人、日頃の惡童には、まことに退屈きはまる數時間であつた。主人は宗偏流家元の堂主中村宗知翁、すでに八十歳をすぎてをられたが、なほ钁鑠たるものがあつたと、子供ごころにも覺えてゐる。
 翁は累世田安藩の臣、大坪流直傳の騎射指南役として重きをなした。維新後は同藩の親友清水蟠山の推擧で新政府に出仕したが、まもなく致仕して言問團子の植佐の離れに退隱した。これは「言問團子」の命名が先考花城翁による縁故からで、のち長命寺内に芭蕉舊跡の一宇を再興、そこに自ら移り住んだのである。
 清水幡山は兵法家として有名な清水赤城の孫である。赤城には四男一女があり、長男は礫州、次男が一方、三男が大橋訥菴である。清水基吉氏の文によれば

 礫州の末子の隆正が、静岡縣知事關口隆吉の養子にはいつた。關口泰を生んだ。關口隆吉はまた關口壮吉、新村出、關口鯉吉を生んだ。壮吉に一男三女がある。男は文部省役人の關口隆克である。長女が諸井三郎に嫁つた。三女が佐藤正彰に行つた。清水赤城の本家は、礫州、蟠山の三代で絶えた。分家の清水一方は、酒のみの、貧乏の、古書好きの、劍道の先生。この一方の家から出た女が大審院判事加藤祖一の妻になつて、三男八女を生んだ、女の梅子が關口壮吉に嫁つた。妹の八重が幼くしてに清水の家[#「に清水の家」はママ]はいつた。これが僕の母である。云々     (寺歩記)

 といふわけであるが、なほ一二を補足すれば、歴史畫家、故實家として知られた日本畫家邨田丹陵は清水礫州の子であり、寺崎廣業夫人菅子は丹陵の實姉であつて、共に時を同じくして向島に居を卜してゐたのである。
 私事にわたつて恐縮であるが、御一新の時、私の祖父は幼い父を伴ひ徳川慶喜について駿府に行つた御家人で、遠州金谷ヶ原で刀とる手に鋤鍬をもち、さんざん…

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