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露伴忌
ろはんき
著者伊庭 心猿
文字遣い旧字旧仮名
底本 「繪入墨東今昔 心猿第二隨筆集」 葛飾俳話會
1957(昭和32)年2月4日
初出「馬酔木 第三十一巻第十号」馬酔木発行所、1952(昭和27)年10月2日
入力者H.YAM
校正者きりんの手紙
公開 / 更新2019-07-30 / 2019-06-30
長さの目安約 7 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

「露伴忌がまた來ますね」
 と、今にもひよつこり、長髮をなびかせた面長の顏が、庭口からはいつて來さうな氣がする。その若い友人、松井夢六が死んだ。通知をうけたのは、二十五日である。
 七月三十日は、市川の菅野でなくなつた幸田成行翁の忌日なので、私たちは毎年、翁のためにさゝやかな佛事をいとなみ、そのあとで俳莚を催すのが例となつてゐる。
 寺は、土地では眞間山で通つてゐる日蓮宗の弘法寺である。寺格も高く、幸田家の菩提所である池上の本門寺とは、縁故山として淺からざる關係があるといふ。
 もとの伽藍は明治の中頃に燒け今のはその後の建立だが、朱の色のくすんだ古風な仁王門、中雀門があり、それよりも淨域一帶が葛飾の野を一眸に見おろす高臺なのが、先ず私たちの氣に入つた。こゝまでは、さすがに土用の猛暑も近づきがたい。
 一周忌の時には、當時船橋にゐた村山古郷さんをはじめ、三十人ほどが集つた。庫裡の大廣間で互選の最中、露伴全集を主掌する土橋利彦さんの東道で、思ひがけず幸田文女史も姿を見せた。私たちは日頃、ごくうちわに俳句を樂しんでゐる者ばかりだつたので、席のあちこちでは、御近所にゐながら一向に存じませんで、なぞと初對面の挨拶が交されてゐた。
 この日は、最高點となつた夢六の句

露伴忌や白塔に似し雲の翳

 を、幸田さんが所望されたので、作者が短册にかいて差上げた。その時に作つた自分の句すらまつたく思ひ出せないのに、この一句だけは、妙にこびりついてゐる。
 披講が終つた頃、さつと一雨、ほどよい夕立があがつた。私たちは蜩の聲をあとに、山の石段を下つた。

        □

 夢六は、まだ國學院國文科に籍をおく學生だつたが、鋭い感覺的な句をつくり、詩もかき、小説もかき、その童話劇はかつて放送されたといふ話もきいた。たゞ才人惜しむらくはその才に溺れすぎたきらひがあつて、正直のところ、私たちの一部で彼の風評は、あまりかんばしくなかつた。
 私と夢六の近づきは、人にさそはれて手兒奈堂の句會に行つたのが始めである。その時は妙な因縁から、お互ひに一面識もないのに選句の上では十年の舊知のやうに共鳴しあつた。終戰直後、アプレゲールといふ語が、はやり出した頃である。まもなく、夢六の家は父の事業の失敗から左前となり、本宅は人手にわたり、家族は以前持家であつた小さな貸家の一つに逼塞した。
 或る日、夢六は學業も今まで通りつゞけられなくなつたから、何か仕事をさがしてくれといつて來た。そのとき私が新興のR社に世話したのがきつかけで、その後二、三の雜誌社を遍歴し、つぎに會つた時には氣負つた調子で、廣告めあての週刊新聞を出して一山あてるのだ、といふ。ついこの間まで、純眞一途な文學青年だとばかり思つてゐた彼が、さも俗世間の裏の裏まで知りつくしたやうに、かういふ怪氣焔をあげるのを見て、私は唖然とした。
 その後…

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