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クロイツェル・ソナタ
クロイツェル・ソナタ
副題02 解題
02 かいだい
著者米川 正夫
文字遣い新字新仮名
底本 「クロイツェル・ソナタ」 岩波文庫、岩波書店
1928(昭和3)年9月15日
入力者川山隆
校正者岡村和彦
公開 / 更新2019-11-25 / 2019-11-01
長さの目安約 7 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 いわゆる『回転期』以後、世界的文豪としての輝かしい名声を敝履の如く棄て、神への奉仕の生活を声明して、宗教的述作へ専心しはじめたトルストイは、一八八六年はじめて『イ[#挿絵]ン・イリッチの死』を公けにして、彼の芸術を惜しむ人々に旱天の慈雨のような喜びを与えたが、それから四年を経た一八九〇年に、さらに彫心鏤骨[#ルビの「ちょうしんるごつ」はママ]の苦心の余になる力作を発表して世を驚かした。それがすなわちこの『クロイツェル・ソナタ』“Kreitserova Sonata”である。本篇の創作にヒントを与えたのは、一八八七年の夏、ヤースナヤ・ポリャーナに文豪を訪問した一俳優の談話で、あるとき汽車の中で、無名の紳士が妻の不貞に苦しんでいる告白談を聞かされたという彼の物語が、何ものをもってしても消す由もない天才の芸術的感興をそそったものである。トルストイはその秋ただちにこの物語の筆を染め、爾来四年間に、幾度となく改竄推敲を重ねた後、ようやく本篇の発表機関となった『ユリエフ記念文集』の編纂者の手に渡されたのであった。
 前にも述べた如く、『クロイツェル・ソナタ』の創作動機は、トルストイ生来の芸術欲に基づくものであることはいうまでもないけれど、しかし芸術に対する見解を一変した時代の作品であるから、約十年前に書かれた『アンナ・カレーニナ』などと比較してみると、創作の根本態度に著しい相違が認められる。以前、驚くばかり瑰麗な花となって開いた純な人生の芸術的観照と再現は、少くとも表面上影を潜めて、ここには芸術的形式をかりた教化的意義が前面に押し出され、破邪顕正の思想が第一目的として主要な位置を占め、書物は大半、人間社会の悪と虚偽に対する論評で充たされている。
 が、それにもかかわらず、この小説は内部に蔵された精神の逞ましさと、簡勁な表現の緊密さにおいて、驚くばかり芸術的な名作である。無論、ここには華やかな現実描写もなければ、複雑多面な人間性の謳歌もないけれど、教化宣伝を目的とした抽象的な論議も、激越なポレミックな調子を帯びた主張も、妻を殺した男の異常に興奮し、緊張しきった神経という背景のもとに置かれているがために、物語の必然性と、構成の均斉を些かも破っていないのみか、説話の形式で書かれた叙述が、息づまるほどの張度を示している点、事件の展開に一分の弛みもない点、一字一句が物狂おしいばかりの真実性に充たされている点、読者を否応いわさぬような強い力でぐんぐん引き摺って行く点――すべてがトルストイの如き偉大な芸術家でなくては到り得ない芸術の至境である。これを前期の豊麗を極めた代表的長篇に比べても、ほとんど遜色のない芸術的価値を有するのみか、比較的短い形式に圧縮せられて、まさしく爆薬の如き力を蔵しているところからいえば、優に前者を凌ぐものさえある。ロマン・ロランがこの小説をもってトルストイ作…

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