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俳句はかく解しかく味う
はいくはかくかいしかくあじわう
作品ID51363
著者高浜 虚子
文字遣い新字新仮名
底本 「俳句はかく解しかく味う」 岩波文庫、岩波書店
1989(平成元)年10月16日
初出「俳句は斯く解し斯く味ふ」新潮社、1918(大正7)年4月
入力者kompass
校正者木下聡
公開 / 更新2023-02-22 / 2023-02-18
長さの目安約 148 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 俳諧の歴史というものは厳密にいえば殆んどまだ調べがついていないというてよい。芭蕉とか蕪村とかいう重な二、三の俳人については相当の研究をした人もあるけれども、俳句全体の歴史を文学史的に研究した人はまだ一人もないといって差支ないのである。しかして世間で普通に説いている俳諧史は極めて簡略な極まりきった説話に過ぎん。今一層大胆に引っくるめて言えば、徳川初期から明治大正の今日に至るまで、多少の盛衰もあり多少の変化もあるにしたところで、要するに俳句は即ち芭蕉の文学であるといって差支ない事と考える。即ち松尾芭蕉なる者が出て、従来の俳句に一革命を企てた以来二百余年に渉る今日まで、数限りなく輩出するところの多くの俳人は、大概芭蕉のやった仕事を祖述しているに過ぎん。そこで今俳句を解釈するに当っても、元禄の俳句はこういう風に解釈せねばならぬが、天明の俳句はそれと全く違うてこういう風に解釈しなければならぬとか、明治大正の俳句はこういう風に解釈しなければならぬというような、そんな複雑した変化のあるものではなくって、或る俳句を抜き出して来て、一応それを解釈する事が出来るようになった以上は、大概の俳句はそれに準じてさほど困難を感ぜずに解釈の出来るものである。唯その中に読み込まれている材料の解釈がむつかしいがために、解釈が出来ぬというような場合は論外であるが、俳句なる或る特別の一つの詩形を解釈するだけの事は、若干句の解釈によって容易く領得せらるる事と考える。そこで私は殆んど時代なんかに頓著なしに数十句の解釈を試みて、諸君の俳句に対する解釈力というようなものを養うという事にしようと思う。

な折りそと折りてくれけり園の梅    太祇

 春先きになって、或る人の庭に梅の花の咲いているのを見て、彼処にいい梅の花が咲いている、あの枝が一本欲しいものだと思うて、それをその家の人に断りもしないで折ろうとしていると、意外にもそこにその家の主人がいて、その梅を折ってはいけない、と叱りながらも、そんなに欲しいのならば上げようといって、かえってその主人が手ずから梅の枝を折ってその人に呉れたというのである。同じ物を盗むのでありながらも、いわゆる風流泥坊で、その盗む者が花卉の中でも殊に清高な姿をして芳香を持った梅の花である事が、一種の面白味を持っている。またその梅を折る人も物を盗むは悪い事と知りながらそれを金に代えようというわけでもなく、多寡が梅の花の一枝位だから折ってやれと、窃かに折り取ろうとしていると、思い懸けなくも其処に主人の声がして梅の花を折ってはいかんと尤められたので、吃驚して手を止めたのであるが、其処の主人もまた、それを尤めたばかりで無下に追い払うのも、それを折る人の心持を十分に解釈することの出来ぬものとして、何処かに自分自身不満足を感ずるので、そんなに黙って折るのはいけないが、欲しいのなら上げよ…

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