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明治世相百話
めいじせそうひゃくわ
著者山本 笑月
文字遣い新字新仮名
底本 「明治世相百話」 中公文庫、中央公論新社
1983(昭和58)年7月10日
入力者小原田ひとみ
校正者みきた
公開 / 更新2020-05-10 / 2020-04-28
長さの目安約 262 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

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文化



[#改ページ]


腕白には煙管が飛ぶ
寺子屋遺風の小学校時代

 明治二年に政府の出した『府県施政順序』のうちに「小学校を設くる事」とあって、翌三年、東京府は初めて都下に小学校を六つ建てた。といっても校舎はすべて寺院で、芝増上寺地中の洞雲院、牛込の万昌院、本郷の本妙寺、浅草の西福寺、深川の長慶寺の六カ所。一方、在来の手習師匠約四百軒が五年の新学制に則って新たに小学校の仲間入り、そのうち数十軒は公立小学校に昇格し、他は私立小学校と称し、これが相当幅を利かせた。そのうち追い追い公立も殖え、粗末ながら洋風の校舎になって各区に一、二校ずつそろったが、私立の方も依然繁昌。
 土地の古株だけに私立の方には父祖三代の生徒もあり、諸事寺子屋の遺風を守って、老先生が教場の正面に頑張る。十五年出板の『高名校主自筆百人一首』というのを見ると、当時女の校長の小学校が数軒あった。神田の芳林、池ノ端の青海、仲御徒町の本島(これが筆者の母校、若先生は初期の師範学校卒業生で、今は退隠されてなお健在。)、霊岸島の馬場、深川の文池堂、同公園の大谷、馬喰町の初音、湯島の近藤、赤坂の氷川などは大きい方、中には塾生の十五、六人いるのもあった。真黒なお草紙をぶら下げ、風呂敷包をはす掛けに背負って、わいわいと出て来る生徒、たまにはアブ蜂とんぼの子も交って菅原の寺子屋そっくり。
 これらの校舎は教場も琉球畳の大広間、溜塗の机や硯箱は毎朝塾生が総掛りで並べる、先生は一家総出で奥さんも共稼ぎ、教授は厳格で、うっかり怠けると煙管の雁首でぽかり、悪戯がばれると尻をまくって竹杖で二十三十の叩き放し、今時には見られぬ場面、その代り師弟の情愛はもそっと深かった。
 公立でも満六歳から入学、数え年七つのわんぱくが小僧や女中におぶさって暴れながら通学、小使部屋はこれらの付添人で一ぱい、時間のしらせは廊下につるしたバン木を叩く、お寺時代の名残りらしい、唱歌はなし体操はなし、遊歩の時間はブランコと鞠投げが専門、あとは先生が一緒になって目隠しや鬼ごっこ、以上十五、六年頃の学校風景。


日本最初の勧工場
丸の内竜ノ口に府立で出現

 勧工場は、寄合世帯ながら今のデパート式に、家庭用品ひととおり揃えて、明治十一年丸の内竜ノ口(永楽町二丁目)に出来た府立の第一勧工場がそもそもの元祖、当時一流の商店が気をそろえての出品、粗末ながら洋風の建物でおやおや迷子になりそうだといったくらいの広さ、近所はまだ旧屋敷取払いのままの草ッ原、不便の場所へわざわざ人力車で見物かたがた出かける人も多く、開業以来なかなかの繁昌。
 入口で下足を預り、竹の皮草履にはき替えて、長い廊下をぞろぞろ、左右の商店はそれぞれ店名や商品の額を掲げ、売子は若い衆と小僧さんで、職業婦人は無論発生しない時代、商品は総て正札ということこの…

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