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追放されて
ついほうされて
作品ID51735
原題В ССЫЛКЕ
著者チェーホフ アントン
翻訳者神西 清
文字遣い新字新仮名
底本 「チェーホフ全集 9」 中央公論社
1960(昭和35)年4月15日初版発行、1980(昭和55)年9月20日再訂再版
入力者米田
校正者阿部哲也
公開 / 更新2011-01-17 / 2014-09-21
長さの目安約 19 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

『先生』と綽名のついた老人のセミョーンと、誰も名を知らない若い韃靼人が、川岸の焚火の傍に坐っていた。残る三人の渡船夫は小屋のなかにいる。セミョーンは六十ほどの老爺で、痩せて歯はもう一本もないが、肩幅が広くて一見まだ矍鑠としている。彼は酔っていた。もう夙から寝たくてならないのだが、ポケットには酒瓶があるし、小屋の若者達にヴォトカをねだられるのも厭だった。韃靼人は病気で元気がなかった。襤褸にくるまりながら、シンビールスク県〔(県が廃止されるまでヴォルガ中流の右岸に臨んでいた一県。地味肥沃で、農産が豊かである。中心市はシンビールスク(現在のウリヤノフスク))〕の素晴らしさや、郷里に残してある美人で利口な女房のことを話していた。年は二十五を越してはいまいが、いま焚火の明りで見ると、病気窶れの顔はいたましく蒼ざめて、少年のように見えた。
「そりゃ、ここは極楽じゃないさ」と『先生』が言った、「見たって分らあね。水、裸かの岸、あたり一面の粘土、それっきりだ。……復活祭ももうとっくに済んだのに、河には氷が浮いているし、今朝なんかも雪がちらついていた。」
「成っちゃいねえ、まるで成っちゃいねえ。」韃靼人はそう言って、怯えたようにあたりを見廻した。
 十歩ほど向うを、冷たい暗い河が流れていた。河は低い呻き声を立てて、洗い窩められた粘土の岸を打ちながら、何処か遠い海へ急いで行く。岸のすぐ下に、渡船夫の間では平底船と呼ばれる大きな艀の影が、黒々と滲んでいる。遙か向う岸には、消えかけたり燃え上ったりしながら、蛇のように這う野火がある。これは去年の草を焼くのだ。蛇の向うはまたしても闇である。小さな氷の塊が艀に突きあたる音がする。湿っぽくて寒い。……
 韃靼人は空を見上げた。故郷と同じくらいたくさんの星が出ている。それにあたりの闇も同じだ。だが何か足りないものがある。シンビールスク県の家で見た星は、こんな星じゃなかった。空もこんな空じゃなかった。
「成っちゃいねえ、成っちゃいねえ」と彼は繰り返す。
「今に慣れるさ」と『先生』は言って笑う、「まだお前は若い。まだ馬鹿だ。脣の乳も乾いちゃいない。馬鹿だもんだから、自分より不仕合わせな人間はないと思っている。だが今にきっと、こんな気楽な境涯はないさと独り言をいうようになる。俺を見てみな。一週もすりゃ水が退く。そこで艀を仕立てて、お前等みんなしてシベリヤじゅうをのして廻る。ところが俺は居残って、こっち岸と向う岸を往き復りしはじめる。もうこれで二十二年もそうやっている。夜昼なしにな。梭魚やネルマ鮭は水の中だが、俺は水の上だ。それも有難い神様の思召しよ。俺は何にも欲しくない。こんな気楽な境涯はないぜ。」
 韃靼人は粗朶を焚火へ投げ入れて、火のすぐ傍に寝そべった。そして言う。――
「俺の親父は病身だ。親父が死んだら、お袋も女房もこっちへ来る。そういう約…

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