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作品ID | 51736 |
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原題 | ЖЕНА |
著者 | チェーホフ アントン Ⓦ |
翻訳者 | 神西 清 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「チェーホフ全集 9」 中央公論社 1960(昭和35)年4月15日初版発行、1980(昭和55)年9月20日再訂再版 |
入力者 | 米田 |
校正者 | 阿部哲也 |
公開 / 更新 | 2011-01-17 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 94 ページ(500字/頁で計算) |
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一
私はこんな手紙を貰った。――
『パーヴェル・アンドレーヴィチ様尊下。御住居に程遠からず、すなわちピョーストロヴォ村に、惨澹たる事実の発生を見つつありますにつき、御一報申し上げますことを私の義務と存ずる次第であります。同村の農民はこぞって農舎および全財産を売却し、トムスク県に移住したりしところ、目的地に到らずして戻って参りました。さて申すまでもなく同村にはもはや彼らの持物とては一物もこれ無く、現在すべて人手に渡っており、農舎一軒につき三乃至四世帯ずつも居住いたし、戸毎の人員は幼児を除くもなお男女併せて十五人を下らず、遂には食物も尽き、飢餓はもとより、一人として飢餓性もしくは発疹性のチフスに感染せざるはなく、村民ことごとく文字どおり罹病いたしております。女医補の曰く、一歩農舎に入りて賭るところは何ぞ、みなこれ病者、悉く熱に浮かされ、或いは高笑いし或いは壁に攀じ、農舎の中は悪臭鼻を衝き、水を与うる者なく、水を運ぶ者なく、食物とてはひとり凍てたる馬鈴薯あるのみと。女医補及びソーボリ(当地の郡会医)も、薬餌よりはパンを先決問題とするとき、もとよりパンの持ち合わせはなきものゆえ、如何とも手の下しようなき次第であります。郡会事務局にては、該農民らはすでに郡会より除籍せられトムスク県下に籍を置くものなるを楯に給与を拒み、かつまた資金も無いのであります。右ここに御報告申し上げ、かつは貴下の御仁愛を知りつつ、早急の御援助を願い奉ります。貴下の多幸を祈る者より。』
明らかにこれは、その女医補自身か、でなければこの獣の名前を持った医師〔(手紙の中に見えるソーボリという姓は、黒貂という字である)〕が書いたものに違いない。一体が郡会医とか女医補とかいう連中は、彼らには何ひとつ出来はせぬということを、多年にわたって日一日と納得しながら、なおかつ凍てた馬鈴薯だけで命をつないでいる人たちから俸給をもらい、なおかつ私が仁愛に富むか否かを論ずる資格があると自惚れているのだ。
匿名の手紙には煩わされるし、毎朝どこかの百姓たちが召使の台所へ上がり込んで来て膝をつく始末だし、前もって壁を破って一夜のうちに納屋のライ麦を二十俵も引いては行くし、それに人の話や新聞や悪天候が裏書きする一般の重苦しい空気――すべてそうしたものに煩わされて、私は仕事に元気が出ず一こうはかばかしく行かなかった。私は『鉄道史』を書いていたので、数多い内外の書籍やパンフレットや雑誌記事に眼を通さなければならぬし、算盤をはじき対数表をめくり、考え、ペンを動かし、それからまた読み弾き考えなければならないのだった。ところが、本に向うか考えはじめるかしたら最後、たちまち頭がこんぐらかり眼を細くせずにはいられず、私は溜息をついて机を離れて、荒れるにまかせた自分の田舎別荘のだだっ広い部屋から部屋へ、歩き廻りだすのだった。歩き飽きると…