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ある日の午後
あるひのごご
作品ID51757
著者小川 未明
文字遣い新字新仮名
底本 「芸術は生動す」 国文社
1982(昭和57)年3月30日
入力者Nana ohbe
校正者仙酔ゑびす
公開 / 更新2012-01-14 / 2014-09-16
長さの目安約 3 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 新に越して来た家の前に二軒続きの長屋があった。最初私にはただこんな長屋があるという位にしか思われなかった。
 ある新聞社にいる知人から毎日寄贈してくれる新聞がこの越して来てから二三日届かなかったので、私はきっと配達人が此家が分らない為であろうと思った。しかし私には無代価で送ってもらっているということが、わざ/\ハガキを本社に出して転居を報ずるのを差し控えさせた。何となればそうするのがあまり厚顔しいように感じられたからであった。たゞ私はどうかしてこのことだけを配達夫に知らせたいと思った。
 此の新聞は午前の四時頃になると配達されるので常に家内のものが眠っているうちに戸の隙間から入れて行くのが例であった。私はもしこの時分に起きて家の外に出て道の上に立っていたなら、偶然にこの新聞配達夫が通り過ぎるのを見ないとは限らないと思ったので、或日の朝私は早く起きて家の外に出た。
 まだうす暗かった、暁の風は、灰色の雲を破って、東の方から夜はほの/″\と明けかゝっていた。まだ道の上に人の通った気はいもしなかった。天地は風の木を吹くより、寂々として音がなかった。高い木立の頂きに暁の風は、自然の眠りを醒ます先駆の叫びのように聞かれた。私は世間の多くの人々が、此夜から暁になろうとしている瞬間の自然の景色を、自分の如くこうして外に立って親しく知る者が幾人あろうと考えた。……私は其処に新しい詩材を見出すことが出来るように覚えて観察を怠るまいと思った。
 此時始めてこの二軒長屋の一軒が、戸を開けてあるのを見て驚いた。もう此家は疾に起きていると思われたからだ。私は其の時からこの家にはどういう人々が住んでいるだろうかと思った。私は直ちに生活に奮闘している人々だと考えた。何となればこんなに朝早くから起きているのを見ると、多くの人々がまだ安眠している時分にも、生活の為に働いているのであろうと感じたからであった。
 私は新聞の問題よりも、此の方に多くの注意を惹いた。而して其の後此の家に注目したが、未だこの家の主らしい男を見たことがなかった。時々家の前に七ツ八ツの青白い顔の女の児が、乳飲児を負って立っているのを見た。妻がその女の児を見ながら、
『死んだ人の顔だってあんなに青くはない。』と言ったことがある。
 なんでも其の顔付は、極端な腎臓病に罹っているような徴候らしくあった。それだのにこうして医者にも見せずにしかも幼児の守をさして置くのは畢竟貧しいが為ではなかろうか。人は境遇によって自然と奮闘する力の強弱がある。此児は果して生を保ち得ようか? ある静かな日の午後である。此家から老女の声と若い女の声とが聞えた。老女の声は低かった。若い女の声は激していた。
『早く此児は死んでしまえばいゝのだ。』と若い女の声が言った。つづいて子供の泣く声がした。ある日の正午頃男が来て大きな声で話をしていた。男は帰る時に…

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