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絶望より生ずる文芸
ぜつぼうよりしょうずるぶんげい
作品ID51764
著者小川 未明
文字遣い新字新仮名
底本 「芸術は生動す」 国文社
1982(昭和57)年3月30日
入力者Nana ohbe
校正者仙酔ゑびす
公開 / 更新2012-01-20 / 2014-09-16
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 私にとっては文芸というものに二つの区別があると思う。即ち悶える文芸と、楽しむ文芸とがそれである。
 吾々の此の日常生活というものに対して些の疑をも挾まず、有ゆる感覚、有ゆる思想を働かして自我の充実を求めて行く生活、そして何を見、何に触れるにしても直ちに其の物から出来るだけの経験と感覚とを得て生活の充実をはかる、此れが即ち人間のなすべき事であり、又人生であると解する。そして此の心を持って自然を見主観に映じた色彩、主観に入った自然の姿、此れが即ち人間生活の絶対的経験という立場から凡ての刺戟を受け入れて日常生活の経験を豊富にするという、それが為めの努力、此れが人生を楽しむ努力であると思う。
 併し、如上の事だけに満足が出来なく、自己の存在を明にする唯一の意識、即ち感覚そのものに疑を挾む事も出来得るのである。只だ人生の保証として、又事実として自分の有して居る感覚に何程の力があるか、此れを考えた時に吾々は斯く思わずには居られない。苟も吾々の肉体に於て、有ゆる外界の刺戟に堪え得るは僅に廿歳より卅歳位迄の極めて短かい年月ではないか、そして年と共に肉体的の疲労を感じて来て何程思想の上に於て願望すればとて、終には外界の刺戟は鋭く感覚に上って来なくなるのは明かな事実である。此の如きは実に人間として感覚の悲哀を感ずべき事ではあるまいか。
 又一方より云えば、吾人の感覚に、何程多くの経験を意識する事が出来るか、殆んど数うべからざる程の多くの外界的刺戟に対して感ずる感覚は、極めて単調であるとしか見られない。要するに人間の感覚に限りのある事は明かな事実である。そして又此れは独り能力のみに限らず時間的にも相当の際限は免れないのである。斯く思えば感覚の生活もやがて亡びて了うという事実も予想せずには居られない。
 人間として生れて来た以上は、肉体に於ても、又精神に於ても各々其の経験を出来得る限り多く営みたいという事は誰しも常に思い希うところであり、又此れが生活として意義ある事であろうと思う。併し其の本能の満足を遂げつゝある間に、人間は自己の滅亡という事を予想せずには居られない。此に於てか痛切に吾々の脳裡に『何処より何処へ行くか』という考えも起るのである。又『此の地上に生れ出でゝ果して何を為すがために生活するか』という様な問題も考えられるのである。そして終に、肉体と精神とを挙げて犠牲にするだけの偶像を何物にも見出し得ざる悲しみを感ぜずには居られないのである。

 そして其処には只だ一つ宗教というものがあって、其所へ逃げて行く事は出来るけれども、又一面より見れば此の宗教という者も、一種の禁欲主義に外ならないではないか、人間的な生活――此の煩わしい現実の生活から離れて、特殊な欲望を禁じて強いて自らを其の上に置くという事は苦しい生活に外ならないではないか。真の宗教家には或はそれが快よい事であり、幸…

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