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舞子より須磨へ
まいこよりすまへ
作品ID51767
著者小川 未明
文字遣い新字新仮名
底本 「芸術は生動す」 国文社
1982(昭和57)年3月30日
入力者Nana ohbe
校正者仙酔ゑびす
公開 / 更新2012-01-26 / 2014-09-16
長さの目安約 4 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 舞子の停車場に下りた時は夕暮方で、松の木に薄寒い風があった。誰も、下りたものがなかった。松の木の下を通って、右を見ても、左も見ても、賑かな通りもなければ、人の群っているのも目に入らない。海は程近くあるということだけが、空の色、松風の音で分るが、まだ海の姿は見えなかった。私は、松並木のある、長い通りを往ったり、来たりして、何の宿屋に泊ろうかと思った。ちょうど、一軒の一品料理店の前に、赤い旗が下っていた。其の店頭に立っていた女に、
『舞子の町は、何の辺ですか』と聞いた。女は淋しそうな顔をしていた。
『町って、別にありません』
 これが、舞子か……と私は、思っていたより淋しい処であり、斯様処なら、越後の海岸に幾何もありそうな気がした。
 亀屋という宿屋の、海の見える二階で、臥転んで始めて海を見た。いつになく、其の日は曇っているのだそうな。こう女がいった時、よく自分は、南に来るたびに其の特色の景色を見ることが出来ない。今年の一月、伊豆山に行った時も、雪が降った。また舞子に来ても、所謂、瀬戸内海の晴れた海を見ることが出来ないのをよく/\運のないことゝ思った。目の下を男と女と二人並で散歩している。二人は海を見て立止った。潮風が二人の袂と裾を飜している。流石に、避暑地に来たらしい感もした。
 夕飯の時、女は海の方を見て『今日は、波が高い』といったが、日本海の波をみている私には、この高いという波が、あまり静かなのに驚かされていた位であるから、平常の海はどんなに静かであろうと疑われた。
 隣の室には、髭の生えた男がいる。其の次の間にも、二三人いたようだ。大きな宿屋は、至って静かだ。たゞ、海から吹いて来る風が開け放たれた室に入った。海は、さながら、鏡の面に息を吹きかけて、曇った程にしか見られない。彼の、北国の海の上を走るような、黒い陰気な雲の片影すらなかった。曇っても飽迄で明るい瀬戸内海は女性的である。自然は広い、これも自然の有する姿の一であると思えば、生れてから暗い海のみを見ていた私は、自然というものゝ解釈が違ったようだ。
 酒を飲み尽さないうちに、海は、暮れてしまった。波は益々高くなったようであったけれど、出ている船の数は多かった。全く、其等の船の影が闇の中に隠れた。電燈は、膳の上の、鮮しい魚の肉を盛った皿に青く輝いた。奈良、法隆寺と海の遠い処の、宿屋に泊って、半分腐れかゝった魚を食べさせられた自分は、舞子の一泊を忘れることが出来ない。闇の中を青い火を点した蒸気船が通る。彼方にいた、赤い小さな燈火が、いつか、目の前に来ている。
 淡路島の一角に建てられた燈台の白い光りが、長く波の上に映っている。船の通るたびに、其の白い光りは見えなくなる。
『あれ、また船が通ります』と、女は、やはり海の方を見ていて言った。
 欄に寄って、遠く、汽船の青い火の、淋しい、闇に消えて行く方を見守…

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