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草木の暗示から
そうもくのあんじから |
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作品ID | 51774 |
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著者 | 小川 未明 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「芸術は生動す」 国文社 1982(昭和57)年3月30日 |
入力者 | Nana ohbe |
校正者 | 仙酔ゑびす |
公開 / 更新 | 2012-01-20 / 2014-09-16 |
長さの目安 | 約 6 ページ(500字/頁で計算) |
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目の醒めるような新緑が窓の外に迫って、そよ/\と風にふるえています。私は、それにじっと見入って考えました。なんという美しい色だ。大地から、ぬっと生えた木が、こうした緑色の若芽をふく、このことばかりは太古からの変りのない現象であって、人がそれに見入って、生の喜びを感ずる心持も、また幾百千年経っても、変りがないと思われました。
なんにも其処には理屈がないのです。たゞ美しいと思えば、それでいゝ、そして人間は、幾何もない生を存分に享楽することが出来れば、それでいゝのであります。
しかし、今の世の中で、この春に遇って、木々の咲く、花を眺め、この若やかな、どんな絵具で描いてみても、この生命の跳る色は出せないような、新緑に見入って、意味深い自然に対して、掬み尽されない慈愛を感ずる人が、幾何ありましょうか。
其れを考える時、私は、また理屈なしに、不幸であるということを感ぜずにはいられないのです。こんなに忙しく、また慌しい生活を送っていたなら、ついに死ぬまでのんびりとして、この自然を楽むことなしに、死んでしまうかも知れない。
こうしたことは、恐らく昔のある時代にはなかったことでしょう。海に、深林に、また野獣に脅かされた、其の当時の人々は、また、同時に自然の慈愛をも充分に受けることが出来たでありましょう。
地上に住む者は、地の匂いを充分に嗅がなければ、其の生活に徹することが出来ない。それに其の地を離れた時には、もはや、自分等の本当の生活というものは、無くなってしまった時であります。地上に住む人間が、最も親しい土や木や、水のほんとうの色を忘れ、匂いを忘れ、特質を忘れたら、彼等は、もはや何処にも、棲家を持たないといっていゝ。なぜなら、彼等は自然に対する、否、地に対する反逆者であるからです。
言い換えれば、地と人間の親しい交渉、それを措いて生活は他にないのであります。愛と美と温かな感情とが、生活に必要なばかりであって、知識というものは本能的の生活には要がないからであります。
私達は、はじめて地から産れた時の喜びと愛と美とを永続し得れば、其れでいゝのです。しかるに私達は、其の喜びも愛も、幸福も永久に忘れてしまった。私達は、其の幸福を取り返さなければならない。其の正義であった生活をもう一度地上に営んで見なければならない。同じような状態は、永久に決して二たび実現するものではないけれど、其れと同じような、また相似た幸福な生活はなされないとは言われないからであります。
知識は、其れがためにのみ必要なのである。また、努力と信念とは其れをなさんがためにのみ必要なのであります。人間の幸福ということを忘れた知識は、何の私達に必要でありましょう。また私達の平和を目的としない信念や、努力は何の価値がありましょう。
其れを、今にも実現し得られるなら、倫理や哲学上の知識は、其の時から、必要…