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机前に空しく過ぐ
きぜんにむなしくすぐ
作品ID51797
著者小川 未明
文字遣い新字新仮名
底本 「芸術は生動す」 国文社
1982(昭和57)年3月30日
入力者Nana ohbe
校正者仙酔ゑびす
公開 / 更新2012-01-14 / 2014-09-16
長さの目安約 4 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 私は、机の前に坐っているうちに、いつしか年をとってしまいました。床屋が、他人の頭の格好を気にしながら、鋏をカチ/\やっているうちに、自分の青年時代が去り、いつしか、その頭髪が白くなって、腰の曲った時が至る如く、また、靴匠が仕事場に坐って、他人の靴を修繕したり、足の大きさなどを計っているうちに、いつしか、自分の指頭に皺が寄り、眼が霞んでくるように、私の青春も去ってしまえば、また、やがてその壮年期も去らんとしているのであります。
 年というものを忘れてしまいたい。毎日、新しく生れ変ったような気持になって自然に接して見たい。今となっては、こうも思って、自分のやゝもすれば、沈み勝な気持を引立てたいとしますけれど、東洋流の思想が、子供の時分から頭にはいっている私達には、人生五十年というような言葉がいまでも思い出されることがあるのです。時勢が積極的となり、事実また、ほんとうに、社会のためにも働いているような人々が、五十以上の人にも多いのを知ると、昔の人の言った、この厭世的な見解は誤っていたということを知るのであります。そして、自分も、これからだと思い、また、真剣に、しなければならぬと考えます。
 しかし、私は、四十の坂を越しました。自分は、常の如く、机の前に坐って、毎日同じようにペンを採っているうちに、いつしか、ひとりでに年を取ってしまったのでした。とは、いうもの、この間、街頭の響きから、人間との接触から、そこに感じられた複雑な人生の幾多の変遷と推移が、文壇の上にも、もしくは、他の社会の上にもあったことを考え出さずにはいられません。私自身にとっても、憧憬、煩悶、反抗、懐疑、信仰、いろ/\と、心の推移と、其の時代々々の思想と生活の異った有様とを顧みて、それ等をあり/\と目の前に描くことができます。
 何といっても、私が最も、年齢について、悲哀を感じたのは、その三十の年を過ぐる時でありました。
「あゝ、もう青春も去ってしまったのか?」
 四季について言えば、三十までは、春の日の光りの裡にまどろむ自然の如くでありました。柔らかな、香わしい風に吹かれる、若葉のように、うっとりとした時節でありました。たとえ、その光には、嚇々とした夏があり、楽しみの多き、また働き甲斐の多き、雄壮な人生が控えていたとはいえ。自分にとって最も、美しい幻の如く、若やかな、そして熱い血の胸に躍った、なやましい日のつゞいた、憧がれ心地に途をさ迷った、二十時代を送ることは、たとえ、当時は、私の、一番生活の逆境時代にあったにかゝわらず、尚この悲しみとやるせなさのために、深く悲しんだものでありました。
 それに較べれば、人生の夏も過ぎんとする、四十を越した時でさえ、さまで心を動かすこともなくて済んだと記憶しています。
 かのロマンチシズムの恍洋たる波に揺られて、年若くして死んだ、キイツ、シェリー、透谷、樗牛、其…

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