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純情主義を想う
じゅんじょうしゅぎをおもう
作品ID51805
著者小川 未明
文字遣い新字新仮名
底本 「芸術は生動す」 国文社
1982(昭和57)年3月30日
入力者Nana ohbe
校正者仙酔ゑびす
公開 / 更新2012-01-17 / 2014-09-16
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 ナロードニーキ社会主義運動の精神を、私達は、今に於てなつかしまざるを得ない。真実を至上とし、行動を良心の上に置いたからである。彼等は、正義のため、全く自己を犠牲にして惜しまなかった。
 私達は、この精神に即してのみ社会運動の意義を見出さんと欲する。そして、この情熱に於てのみ、不断の感激をそゝられるのである。
 主観的信念より、客観的組織に就くことは自然として、何等疑いを挾まない。けれど、これしも空想的社会主義から科学的社会主義にいれるものとして価値を差別せんとするに対しては、我等は見界を異にせざるを得ないであろう。
 所謂、空想的社会主義と、科学的社会主義との相違は、単に、その手段、方法の問題たるにとどまらず、其処に、性格の相違あり、また、全く人生に対する、前提の同じからざるによるものがある。
 チャイコフスキイ団の如き、謙譲と真実と愛によってのみ民衆は教化せらるゝものと信じた。そして、彼等は、まさに身をもって、その任に当った。東西古今、真理を愛し、正義に感ずるもの、まさに、青年に如くはなかった。
 クロポトキンは、「何事をおいてもの快楽の情欲しか持たないところの、のらくら息子でないかぎりは、真理のために起つであろう」と、言っている。
 青年時代は、最も、真理を検別するに、敏感であるばかりでなく、また真理の前に正直であるからである。今日、真面目なる学生等が、社会科学の研究に趣くのを不思議としないであろう。
 一八五〇年代のロシアの学生が、「民衆の中に」行った気持には、悲壮なものがあった。彼等は、大学を捨てたばかりでなく、一切の都会的享楽から離れて、農村に走り、農奴と伍した。そして、自から耕牧して、彼等と共に、苦楽を分った。彼等の生活が正しいばかりでなく、愛するためには、身を以て殉ぜんとしたところに、真実さがなければならぬ。一人、一人の魂に触れるということは、これ程、たしかなことはないからであろう。
 ナロード主義が、空想的であって、マルクス主義が科学的である故に、前者に、大衆を獲得する力がないといって、貶することができるであろうか。
 その時代の民衆作家は、みなナロードの精神を有していた。彼等は、親しく、農村の生活を観察したるにとゞまらない。無智の農民の代弁となり、その生活を詩化することによって階級的侮辱から、また彼等を救わんとさえ試みたのである。
 かくの如き、青年や、作家の行動を空想的にすぎぬと言ってしまうことができるであろうか? 行動は、即ち良心なりと信ずるかぎり、この種の自己犠牲精神を他にして、人生の熱情も、感激も見られないのである。
 レーニンの弁証法に、ブハーリンの史的唯物論に、もとより真理のある事を否まない。且つ、科学的基礎のあることをば信ずる。たゞこれを漫然と繙くものに、いずこにか、ナロードニーキの運動を嗤う権利があろう?
 現代は、科学的…

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