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桔梗の別れ
ききょうのわかれ |
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作品ID | 51830 |
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著者 | 岸田 国士 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「岸田國士全集4」 岩波書店 1990(平成2)年9月10日 |
初出 | 「令女界 第九巻第八号」1930(昭和5)年8月1日 |
入力者 | kompass |
校正者 | 門田裕志 |
公開 / 更新 | 2012-04-03 / 2014-09-16 |
長さの目安 | 約 9 ページ(500字/頁で計算) |
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一
ある高原の避暑地。落葉松の森を背にしたテニスコートの傍ら。日が落ちて、橙色の雲の一塊が、雪をいたゞいた遠い峰を覆つてゐる。今テニスを終つたばかりの四人、そのうちの女二人は境笛子と母の杉江である。そして、二人の青年は、金津朔郎と酒巻深である。
酒巻 明日は敵を打ちませうね。笛子さん。
笛子 明日は組を変へるんだわ。
杉江 母さんと組まなくつちや駄目だよ。
金津 小母さんに睨まれてると、うつかりしたことはできないからなあ。
杉江 また雷が来さうね。昨夜はなんてひどかつたんでせう。
酒巻 でいよいよ、明後日お帰りですか。
杉江 ひとまづね。だつて、パパ一人を、あんまり淋しい目にあはせることできませんもの、ねえ笛子……。
笛子 パパが――こつちへいらつしやればいゝんだわ。
杉江 それがおできになれないんだから仕方がないさ。
酒巻 鎌倉にだつてコートはあるでせう。
笛子 どうせホテルなんだから、あつてよ。
杉江 あなた方もあつちへおいでなさいな。
金津 ひとつ、おやぢに談判してやらう。
酒巻 僕んとこは、お袋が海は嫌ひなんだから、駄目だ。
二
その避暑地を通つてゐる軽便鉄道の停車場。プラツトフオームのベンチ。
杉江 こんな不便なところでも、慣れちまふと、もつとゐたいやうな気がするね。
笛子 えゝ。それにひとつはお友達ができたからよ。
杉江 あたしたちのテニスのお相手には、ちよつとお気の毒だつた。でも、毎日、よく厭きずに来て下すつたね。
笛子 ほんとよ。いゝ方たちね。東京へ帰つたら遊びに行つてもいゝかつて云つてらしつたわ。
杉江 パパがさういふことをなんておつしやるか……。
笛子 避暑地なんかで、若い男と親しくなつちやいけないつておつしやつたわね、あたしたち、もう、親しくなつちやつたか知ら……?
杉江 それやまた意味が違ふさ。あの人たちは、別にお前にどうかうつていふわけぢやないんだから……。
笛子 さう? でも、わからないわよ。
杉江 母さんにはわかつてるんですよ。お前はまだ、そんなこと考へなくつたつていゝんです。
笛子 だつて、考へちやふわ。金津さんたら、昨夜、あたしにかういふのよ――「僕は、笛さんのやうな妹が欲しいなあ」つて……。
杉江 何時さ。
笛子 ヴエランダで涼んでる時……母さまがボンボンを取りに部屋へお帰りになつたでせう。あの間によ……。さうしたら、酒巻さんが負けずにかう云つたわ。――「笛子さんが君の妹だつたら、僕がお嫁さんに貰つてやる」つて……。
杉江 馬鹿だねえ、あの人は……。
そこへ、金津と酒巻が現はれる。
金津 遅れたかと思つた。
酒巻 この先生が髭なんか剃つてるからですよ。
杉江 わざわざ見送りに来て下すつたの、もう昨夜、「さよなら」をしたんぢやありませんか。
金津 …