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油地獄
あぶらじごく
作品ID51949
著者斎藤 緑雨
文字遣い新字新仮名
底本 「日本短篇文学全集 第9巻」 筑摩書房
1969(昭和44)年6月5日
初出「国会新聞」1891(明治24)年
入力者蒲原秀郎
校正者Juki
公開 / 更新2015-09-10 / 2015-05-25
長さの目安約 68 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 大丈夫まさに雄飛すべしと、入らざる智慧を趙温に附けられたおかげには、鋤だの鍬だの見るも賤しい心地がせられ、水盃をも仕兼ねない父母の手許を離れて、玉でもないものを東京へ琢磨きに出た当座は、定めて気に食わぬ五大洲を改造するぐらいの画策もあったろうが、一年が二年二年が三年と馴れるに随って、金から吹起る都の腐れ風に日向臭い横顔をだん/\かすられ、書籍御預り申候の看板が目につくほどとなっては、得てあの里の儀式的文通の下に雌伏し、果断は真正の知識と、着て居る布子の裏を剥いで、その夜の鍋の不足を補われるとは、今初まったでもないが困った始末、ただ感心なのはあの男と、永年の勤労が位を進め、お名前を聞さえが堅くるしい同郷出身の何がし殿が、縁も無いに力瘤を入れて褒そやしたは、本郷竜岡町の下宿屋秋元の二階を、登って左りへ突当りの六畳敷を天地とする、ことし廿一の修行盛り、はや起をしば/\宿の主に賞揚された、目賀田貞之進という男だ。
 貞之進の志ざす所は法学にあるが、もと/\口数の寡い、俗にいう沈黙の方で、たまたま学友と会することがあっても、そうだそうでないと極めて簡短な語をもって、同意不同意を表白するだけで、あえて太だしく論議したことはない、だから平生においても、敵という者を持たない代りに味方という者もまた持たない、つまり親密な友達と云っては、貞之進に限ってひとりも無いのだ。生れを問えば、山は赤石山、川は千隈川、地理書ではひけを取らぬ信濃国埴科郡松代から、もう一足田舎の西条という所で、富豪と朴直と慈仁と、この三つに隣村までの小作の指を折られる目賀田庄右衛門が一粒種、一昨年はまだ長野の学校に居たが、父に連れられて東京に来り、それより踏留まって今の秋元へ竜は潜んだのだ。されば学資はありあまる、書は自由に買い込む、それで読む読まぬにかかわらず机の前を離れたことがないので、目賀田は遂に字引になるのだとの評が、同窓の学友の口から往々漏れることがあった。
 今の貞之進に、嗜好を何だと尋ねたならば、多分読書と答えるだろう、だが不思議なことは、寄席へ行けと云えば寄席へ行く、芝居へ行けと云えば芝居へ行く。それでどこにも面白いという気振は見えぬが、誘いかけられたことは必ず辞さない、或いは辞する勇気が無いのかも知れない。同宿の悪太郎原は、それを好事にして折々貞之進をせびる、せびられゝばすぐ首肯て、及ぶだけ用立てゝ遣るのが例の如くなっていた、それから或男が附け込んで、或いやしい問題を提げた時、貞之進はじっとその男の顔を瞻詰めて、しきりに唇を顫わしていたが、大喝一声、何ッと言放した音の鋭かったことは、それまでに顕われた貞之進の性行を、こと/″\く打ち消すほどの勢いであったと、かえって悪太郎原の間に、興ある咄の一つとして伝えられた。そのうめ合せにはこれまで秋元の婢共は、貞之進の物数を言わぬことを、気心が…

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