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にぎり飯
にぎりめし
作品ID51972
著者永井 荷風
文字遣い新字旧仮名
底本 「ふるさと文学館 第一三巻 【千葉】」 ぎょうせい
1994(平成6)年11月15日
入力者H.YAM
校正者米田
公開 / 更新2011-03-10 / 2014-09-16
長さの目安約 15 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 深川古石場町の警防団員であつた荒物屋の佐藤は三月九日夜半の空襲に、やつとのこと火の中を葛西橋近くまで逃げ延び、頭巾の間から真赤になつた眼をしばだゝきながらも、放水路堤防の草の色と水の流を見て、初て生命拾ひをしたことを確めた。
 然しどこをどう逃げ迷つて来たのか、さつぱり見当がつかない。逃げ迷つて行く道すがら人なだれの中に、子供をおぶつた女房の姿を見失ひ、声をかぎりに呼びつゞけた。それさへも今になつては何処のどの辺であつたかわからない。夜通し吹荒れた西南の風に渦巻く烟の中を人込みに揉まれ揉まれて、後へも戻れず先へも行かれず、押しつ押されつ、喘ぎながら、人波の崩れて行く方へと、無我夢中に押流されて行くよりしやうがなかつたのだ。する中人込みがすこしまばらになり、息をつくのと、足を運ぶのが大分楽になつたと思つた時には、もう一歩も踏出せないほど疲れきつてゐた。そのまゝ意久地なく其場に蹲踞んでしまふと、どうしても立上ることができない。気がつくと背中に着物や食料を押込められるだけ押込んだリクサクを背負つてゐるので、それを取りおろし、よろけながら漸く立上り、前後左右を見廻して、佐藤はこゝに初て自分のゐる場所の何処であるかを知つたのである。
 広い道が爪先上りに高くなつてゐる端れに、橋の欄干の柱が見え、晴れた空が遮るものなく遠くまでひろがつてゐて、今だに吹き荒れる烈風が猶も鋭い音をして、道の上の砂を吹きまくり、堤防の下に立つてゐる焼残りの樹木と、焦げた柱ばかりの小家を吹き倒さうとしてゐる。そこら中夜具箪笥風呂敷包の投出されてゐる間々に、砂ほこりを浴びた男や女や子供が寄りあつまり、中には怪我人の介抱をしたり、または平気で物を食べてゐるものもある。橋の彼方から一ぱい巡査や看護婦の乗つてゐるトラツクが二台、今方佐藤の逃げ迷つて来た焼跡の方へと走つて行くのが見えた。大勢の人の呼んだり叫んだりする声の喧しい中に、子供の泣く声の烈風にかすれて行くのが一層物哀れにきこえた。佐藤は身近くそれ等の声を聞きつけるたび/\、もしや途中ではぐれた女房と赤ン坊の声であつてくれたらばと、足元のリクサクもその儘に、声のする方へと歩きかけたのも、一度や二度ではなかつた。
 避難者の群は朝日の晴れやかにさしてくるに従つて、何処からともなく追々に多くなつたが、然し佐藤の見知つた顔は一人も見えなかつた。咽喉が乾いてたまらないのと、寒風に吹き曝される苦しさとに、佐藤は兎に角荷物を背負ひ直して、橋の渡り口まで行つて見ると、海につゞく荒川放水路のひろ/″\した眺望が横たはつてゐる。橋の下には焼けない釣舟が幾艘となく枯蘆の間に繋がれ、ゆるやかに流れる水を隔てゝ、向岸には茂つた松の木や、こんもりした樹木の立つてゐるのが言ひ知れず穏に見えた。橋の上にも、堤防の上にも、また水際の砂地にも、生命拾ひをした人達がうろうろしてゐる…

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