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独楽園
どくらくえん |
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作品ID | 52090 |
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著者 | 薄田 泣菫 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「独楽園」 ウェッジ文庫、ウェッジ 2009(平成21)12月28日 |
入力者 | kompass |
校正者 | 美濃笠吾 |
公開 / 更新 | 2011-08-27 / 2014-09-16 |
長さの目安 | 約 143 ページ(500字/頁で計算) |
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[#ページの左右中央]
この書をわが老母と妻に
[#改丁]
早春の一日
読書にも倦きたので、庭におりて日向ぼつこをする。
二月の太陽は、健康な若人のやうに晴やかに笑つてゐる。そのきらきらする光を両肩から背一杯にうけてゐると、身体中が日向臭く膨らんで、とろとろと居睡でもしたいやうな気持になるが、時をり綿屑のやうな白雲のちぎれが、そつと陽の面を掠めて通りかかると、急に駱駝色の影がそこらに落ちかぶさり、肌を刺すやうなつめたさがひとしきり小雨のやうに降りそそいで来る。その度にだらけようとする気持はひき緊められて、
「春もまだ浅いな。」
と、おぼえず口のなかで呟かれようといふものだ。
柳、桜、木蓮、無花果、雪柳といつたやうなそこらの木々は、旧葉の落ちた痕から、ちよつぴりと薄赤味のさした若芽をのぞかせて、小当りにこの五六日のお天気模様に当つてみてゐるらしいが、暖さ続きのうちにも、どうかすると急に寒さが後返りして、細かい粉雪でもちらちら降りかからうとするこの頃の模様を見ては、つい気おくれがするかして、めいめいしつかりと木肌にしがみついてゐるやうだ。そんななかに、梅の樹のみはもう真白な花をぱつちりと開いて、持前の息ざしの深い、苦味のある匂をぷんぷんとあたりの大気に撒き散らしてゐる。
先刻からちよつと曇つてゐた空は、やがてまた明るくなつて来た。太陽は黄熟した大きな朱欒のやうにかがやき出した。乾いた砂地に落ちた梅の樹の横顔が、墨絵で描いたやうにくつきりと浮いて見える。
ぐつと臂を張つたやうに斜に構へた太い本枝の骨組の勁さ。一気にさつと線を引いたやうに、ながく延び切つた楚の若々しい気随さ。――さういつたものが、はつきりと地びたに描かれてゐるのみならず、気がつくと、また私の心の片隅にも、ぼんやりとその影を落してゐる。
私は梅が好きだ。だから今日まで梅の絵も数多く眼に触れたが、そのなかで最も私の気に入つたのは、自ら「江南風流第一才子」と名乗つてゐた唐六如の墨絵の二三幅だつた。六如は平生金閭門外の桃花塢に設けてあつた桃花庵といふ別業に起臥し、日々好きな酒に食べ酔ひ、酔つたまぎれに「桃花庵歌」を作り
桃花塢裏桃花庵 桃花庵裏桃花仙
桃花仙人種二桃樹一 又摘二桃花一換二酒銭一
酒醒只在二花前一坐 酒酔還来二花下一眠
半醒半酔日復日 花落花開年復年
但願老二死花酒置一
といつて、その限りない愛着を桃花に寄せてゐたが、遺された作品の出来栄から観ると、六如は自分では、はつきりと意識しないまでも、どちらかといへば桃花よりも寧ろ梅花の方に多くの心契を持つてゐたらしい。さもないと、彼の作物に見られるやうな、この樹のもつ性格気品のあんなにすばらしい表現が容易に出来るものではない。私達は梅の花のあの冷々とした苦い匂に、六如のもつてゐた尖鋭な気禀を嗅ぎ、楚といふ…