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頸の上のアンナ
くびのうえのアンナ
作品ID52177
原題АННА НА ШЕЕ
著者チェーホフ アントン
翻訳者神西 清
文字遣い新字新仮名
底本 「チェーホフ全集 10」 中央公論社
1960(昭和35)年4月15日初版発行、1980(昭和55)年9月20日再訂再版
入力者米田
校正者阿部哲也
公開 / 更新2011-01-26 / 2014-09-21
長さの目安約 30 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 結婚式のあとではちょっとした茶菓さえ出なかった。新夫婦はシャンパンの盃を挙げて、それから直ぐ旅行服に着替えると停車場へ乗りつけた。陽気な結婚舞踏会や晩餐や、音楽や舞踊の代りに、彼等は五十里も隔たった修道院に参詣に出掛けるのであった。多くの人々はこの企てに賛意を表していた。モデスト・アレクセーイチは既に官職も高いし年齢も相当進んだ方だから、騒々しい婚礼などは全く似合わしくないだろう、と言うのである。全く、五十二歳にもなる立派な官吏が、やっと十八になったばかりの少女と結婚したのだから、音楽を聴いたってただ退屈なだけであろう。また、モデスト・アレクセーイチはなかなか信条のはっきりした人だから、結婚生活にあっても先ず宗教と道徳を第一に据えるという自分の気持を、小さな花嫁に会得させる目的で、この修道院行きを選んだのであろうと、言う人もあった。
 停車場には見送人がつめかけて来た。同僚たちや親戚の人々が手に手にシャンパンの盃を持ち、汽車が動き出して「ウラア」を叫ぶ時を遅しと待ちかまえていた。シルク・ハットと教授服に身をかためた花嫁の父親ピョートル・レオンチイッチは、もう酔いが廻りすぎて蒼い顔になっていたが、やはり手にシャンパンの盃を持ったまま絶えず車窓を覗き込んで懇願するような声で言うのであった。
「アニュータ! アーニャ! もうひと言だけだよ、アーニャ!」
 アーニャが車窓から顔を乗り出すと、彼は葡萄酒の匂いをぷんぷんさせながら娘の耳に何やら囁き込むのであった。何を言っているのかひと言も解らなかったが、とにかく娘の顔や胸や手の上に十字を切って、息をはずませ眼を潤ませるのであった。すると、アーニャの弟で二人ともまだ中学生のペーチャとアンドリューシャとは、父親の服を握って後ろへ引き戻しながら、当惑そうに囁いた。
「お父さん、もういいですよ。……お父さん、駄目ですったら。……」
 汽車が動き出すとアーニャには、自分の父親が手のなかの酒を揺り滾しながら、いかにも人の善い残念そうな、そしてすまなそうな顔をして暫く追いかけて来るのが見えた。
「ウラア、ア、ア」と父親は叫んだ。
 新夫婦は二人きりになった。モデスト・アレクセーイチは仕切車のなかを見廻し、手荷物を網棚の上に載せてから、微笑を浮べて小さな妻の向い側に腰を下した。この官吏は中背で相当に肥満しむくんだ身体つきで、その頗る栄養のよさそうな顔には長い頬鬚を蓄え、口髭はなかった。よく剃りの当ったまんまるな線のくっきりした頤は、足の踵によく似ていた。彼の顔で一番の特徴と言えばやはり口髭のないことであろう。その青々と剃りの当った裸の皮膚には、脂ぎってまるで果漿のように波をうつ両頬がつづいていた。甚だ威厳のある身のこなしで、敏捷に身体を動かすことはないが、それかと言って態度はあくまで物柔かであった。
「僕は今こんな事を思い出す…

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